明顕山 祐天寺

年表

享保20年(1735年)

祐天寺

仁王門建立―その2

2月24日、表門(現在の仁王門)予定地は未決着でしたが、釿初式が行われました。祐海は新地奉行松平庄九郎といく度もの交渉の結果、3月6日にようやく表門予定地振り替えの許可を得ました。7日に増上寺輪番所、および御鳥見衆へ届け、また今まであった植え込みを切り払って地祭法楽、惣衆出勤、四奉請、阿弥陀経、念仏回向がなされました。工事は8日から取り掛かりました。予定地決定後、工事は順調に進み、4月5日に柱立て初め規式が行われました。
4月11日、晴天のもと、仁王門上棟規式が行われました。式後、惣衆が出勤し、四奉請、護念経、念仏回向を行いました。普請奉行の永井三右衛門、そのほか惣職人へ正味五菜酒を出しました。上棟の飾り物は、供え餅3飾り、御酒1対、撒き餅と撒き銭333文、洗米、賽銭1貫文、懸け銭3貫文です。芝御守殿(竹姫)へ供え餅1重と赤飯塗り重で1組を差し上げました。上棟のときの棟札から、関係者の名がわかります。竹姫方の御用係は於津礼、浅野。祐天寺の役僧は祐益、祐達。衆頭は嶺応。納戸は祐説。納所は寂応と利忠。世話人は永井三右衛門刑恒。棟梁は大貫平右衛門定次。肝煎は伊藤久三郎満正でした。
このとき、仁王門の表囲いと矢来門も一緒に建てられたのでした。
4月30日、寺社奉行の井上河内守へ寂応を使僧として絵図と番所の位置変更の願書を差し出しました。5月4日にこの願いは許可されました。
5月6日、井上河内守へ直参し、仁王門へ7尺9寸(約2メートル90センチ)の仁王像2体を安置したいという願書を提出しました。役人山脇弥次右衛門が取り次ぎ、預かりとなりました。
7月12日、昼九つ時(正午頃)、仁王門へ供え餅1飾り、神酒、洗米を供え、大衆が出勤して四奉請、阿弥陀経、念仏回向を行ったのち、祐海が通り初めをしました。
仏師の竹崎石見方に4月に申し付けた仁王像が成就したとのことで、8月23日に人足6人と永井三右衛門の手代3人を遣わし、夜五つ時(午後8時頃)過ぎに、まず1体を取り寄せました。また、26日の晩に同じ人数でもう1体を運び込みました。仁王像の腹内に板札を納めました。
10月22日、井上河内守へ参上しました。江戸府内で近年に仁王像を安置した寺があれば書き付けて差し出すよう、先日から申し付けられていたので、その書付を提出しました。
仁王像安置が許可されるのは、元文3年(1738)となります(元文3年「祐天寺」参照)。

参考文献
『寺録撮要』2

千部修行、継続

8月29日、寺社奉行井上河内守へ千部修行継続願いを提出しました。享保10年(1725)に10年間は許可されていた(享保9年「祐天寺」参照)のですが、その期限が今年で切れるからです。役人の松嶋久兵衛へ差し出し、預かりとなりました。9月27日に、呼び出されて松平紀伊守の寄り合いへ出席した席上、千部修行は許可されました。お礼回りをし、増上寺役所に届けました。

参考文献
『寺録撮要』3

寺院

頓秀、増上寺住職に

正月23日、利天に代わって伝通院の頓秀が増上寺第41世となりました。頓秀は求道心が強く、華美なものを厭う人物だったと言います。また、増上寺内の会計を明瞭にし、その会計に携わる者の心得を指示したという業績にも、頓秀の恬淡な人となりがうかがえましょう。その後、元文3年(1738)11月に辞職し、翌4年(1739)10月に74歳で遷化しました。


蔵司職に永式掟十一か条

蔵司職とは、増上寺において大蔵経の管理をする者のことです。当時の増上寺には徳川家康からたまわった3種類の大蔵経がありましたが、ここで定められた掟には、その大蔵経の開蔵日(毎月2・12・22日)や、民衆へ貸し出す際の手続き、虫喰い・破損の場合の処置、そして蔵司職となる者の選出の方法などがありました。

参考文献
『縁山志』10(『浄土宗全書』19)、『大本山増上寺史』、『山門通規』(『増上寺史料集』3)

芸能

『名山累曽我』初演

正月、中村座で累物の歌舞伎『名山累曽我』が初演されました。2世津打治兵衛の作です。


『苅萱桑門筑紫いえずと』初演

8月、大坂豊竹座で並木宗輔、並木丈輔合作の浄瑠璃『苅萱桑門筑紫いえずと』が初演されました。謡曲、説教、古浄瑠璃などをもととして作られています。筑前の城主である加藤繁氏は、御台所の牧の方と妾の千鳥がうたた寝の間に互いの髪の毛が蛇と化して争うのを見て発心、遁世します。御台所は子息石動丸を連れ、高野山にいると聞いた繁氏を訪ねていきます。当時は女人禁制であった高野山に御台所は登れず(「解説」参照)、幼い石動丸が1人で山を登り、顔を知らぬ父を探します。しかし、やっとのことで訪ね当てた繁氏は父と名乗らず出家を貫くのでした。この繁氏の話に、繁氏の留守宅に起きた名玉を巡る騒動(守宮酒の段)を絡めてあります。

参考文献
『歌舞伎事典』、「演劇目録と上演年表」(中山幹雄、『江東史談』214号、1985年)、「累狂言の趣向の変遷―『伊達競阿国戯場』以前」(東晴美、『文学研究科紀要』別冊第20集、早稲田大学大学院、1993年)
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