明顕山 祐天寺

年表

享保19年(1734年)

祐天寺

林外、遷化

正月26日、祐天上人に随従していた林外が遷化しました。白金正源寺の住職を勤めていました。法号は嘆蓮社讃誉上人林外和尚です。

参考文献
『本堂過去霊名簿』

小五郎、御成

2月25日、寺社奉行である西尾隠岐守配下の木村万平が来寺し、明日26日に徳川小五郎〔享保6年(1721)に誕生の吉宗第4子。のちの徳川宗尹。一橋家の始祖〕が目黒周辺に来られる折に祐天寺に立ち寄られる旨を告げました。
26日、小五郎は目黒不動(瀧泉寺)を御膳所としたのち、八つ時(午後2時頃)に祐天寺に参詣されました。祐海は裏門で出迎えました。伴僧は祐達、祐説でした。書院の庭に床几を据え、毛氈を敷いてその上で休息されました。このとき独活2包み、紅白の牡丹3輪を焼き物の花入れに入れ、白木の台に乗せて出しました。そのほか祐天上人真筆の御守名号1幅を差し上げ、それから書院へ入られ、身代わり名号、舎利、舌根などの什物を拝覧のうえ、祐海の十念を受けられました。お帰りの節は、祐海が表門まで見送りました。この日の供は本丸小納戸川井刑部、近習桜井九右衛門ほかでした。
翌27日に、近習たち、寺社奉行月番、増上寺へ使僧をもって昨日のお届けをしました。

参考文献
『寺録撮要』4

増上寺利天、来駕

5月11日、増上寺住職の利天が祐天寺へ来寺しました。2代目市川団十郎(享保6年「人物」参照)の日記『老のたのしみ』には、利天が目黒西運堂、明王院へも立ち寄り、団十郎の妻子が十念をいただいたという記述があります。

参考文献
『老のたのしみ抄』(柏筵、『燕石十種』5、森銑三ほか監、中央公論社、1980年)

2代目団十郎、参詣

6月19日、目黒の別荘に来ていた2代目市川団十郎夫婦が祐天寺に参詣しました。19日は父の初代市川団十郎の月忌なので参詣したのでした。祐海とゆるゆると清談し、夫婦ともに日課念仏200遍をすることになったことが団十郎の日記に記されています。また祐海は団十郎に酒肴を出して、自分が小僧であった幼いときに見物した団十郎の芝居の話もしたようです。団十郎は祐海の巧みな説法に感激し、また祐天上人の舎利や舌根、身代わり名号を拝見して感涙にむせんだ旨を、日記にとどめています。

参考文献
「二世團十郎の日記」(伊原青々園、『團十郎の芝居』、早稲田大学出版部、1934年)、「二世団十郎日記抄」(渡辺憲司ほか編、『資料集成二世市川團十郎』、立教大学近世文学研究会編、和泉書院、1988年)

蓮入大徳、入寂

7月27日、牛島時代から祐天上人の随従だった蓮入が寂しました。法号は臺誉蓮入大徳です。墓は、上人墓石の脇に建っています。

参考文献
蓮入墓石(祐天寺)、『本堂過去霊名簿』

仁王門建立―その1

9月4日に増上寺役者の義潭へ、祐天上人の願いだった仁王門と仁王像の建立を願い出ました。また、寺社奉行の井上河内守へ願書を持参し、役人杉崎久兵衛、山脇孫右衛門へ申し入れると、願書はお預かりとなりました。
12月4日、井上河内守の使いで波々泊且右衛門、中里為右衛門が来寺し、名主と年寄の立ち会いのうえで見分を済ませました。
5日、井上河内守へ昨日の見分の礼を申し上げ、かつ伺いに参上しました。役人山脇弥右衛門が応対し、表門(現在の仁王門)の件は願いどおり許可された旨を伝えられました。また、本堂正面西の抱え地へ表門を振り替える願いの件も、添え状を出すので新地奉行に願うべき由を伝えられました。祐海が早速、新地月番の松平庄九郎へ添え状を出して願い出ました。その後も境内絵図の提出を命じられるなど、いく度かの折衝の末に、翌年3月に許可がおりるのでした(享保20年「祐天寺」参照)。

参考文献
『寺録撮要』2

天英院の増上寺参詣

11月10日、三島谷檀的を通じて増上寺より、明日参上するよう呼び出しがありました。翌日参上したところ、来る14日に天英院が文昭院殿(家宣)、有章院殿(家継)の霊屋へ参詣するので、増上寺にて出迎えるよう、寺社奉行の井上河内守より達しがあった旨の連絡でした。祐海は早速に井上河内守へ参上し、お受けしました。天英院の参拝は、文昭院殿23回忌の法事が済むのに合わせてのことです。
12日、祐天寺や増上寺に出迎えを仰せ付けていただいたことへのお礼の手紙を天英院御年寄方に出したところ、秀小路より返事がありました。天英院が拝されるときにお身代わりをするようにとのことで、袈裟に仕立てて用いるようにと牡丹の紋の金の入れ綿を拝領しました。
13日は曇天でしたので、翌日の天英院仏参は延ばされました。15日、役者の義潭より明16日に天英院参詣がある旨の連絡がありました。
16日は晴天でした。暁六つ時(午前6時頃)祐海は出駕して増上寺に行き、四つ時(午前10時頃)過ぎに、天英院が参詣に見えました。その節は御装束所門前で増上寺住職、役者4人、別当2人とともに、祐海もお迎え申し上げました。祐海は拝領した牡丹紋金入れ綿で作った袈裟を着用していました。住職の紹介は本多中務少輔、その他の者の紹介は酒井安芸守が行いました。それから天英院は御装束所へ入り、お召し替えをされ、文昭院殿、有章院殿の霊屋へ参詣されました。その後また御装束所へ入られ、それから御年寄はじめ供回りまで残らず方丈で饗応がありました。お休みの間に祐海は御錠口まで参り、御年寄方にお会いし、天英院からは黙されたまま内々御意がありました。御用人たちへもあいさつをしました。七つ時半(午後5時頃)過ぎ、天英院はご機嫌良く還御されました。天英院は両霊屋に御供物白銀20枚ずつを供えられ、住職には銀10枚、役者、別当には銀2枚ずつ、祐天寺には3枚の拝領物をくださいました。
17日、天英院参詣が滞りなく行われたことにつき、用人酒井安芸守ほか、寺社奉行の井上河内守へお礼に回りました。同日、二の丸御年寄へ手紙を出し、昨日は天気が良く、参詣も無事に済み、拝領物をいただいたことのお礼を申し述べました。

参考文献
『寺録撮要』

祐全実母および弟、寂

1月21日、のちの祐天寺第6世祐全の実母が寂しました。法号は理誉妙心智光大姉です。同日に祐全の弟である現光童子も寂しています。

参考文献
『本堂過去霊名簿』

祐海、『威儀略述』を著述

この年に祐海は『威儀略述』を著述しました。出版は宝暦4年(1754)に行われました(宝暦4年「出版・芸能」参照)。この書は同じく祐海が著述した『僧衆威儀司南』の内容を整え、書き改めたものです。

参考文献
『威儀略述』(祐天寺蔵)、『僧衆威儀司南』(祐天寺蔵)

寺院

山内寮主直弟願三か条

貞享2年(1685)に所化員の定数を増上寺は70名と定められていたにもかかわらず、僧侶となるために増上寺へ入寺を希望する者は多く、増上寺には常に3、000人の所化僧がいたと言います。これは、正月に籤で選ばれる通常の入寺者のほかに、例外として方丈役者、学寮主と三席までの直弟などの入寺が、定員外に認められていたためでした。享保19年正月に、学寮主と三席までの直弟については、剃髪後すぐの入寺を許可するという制度(山内寮主直弟願三か条)が出されます。そのうえ1人で養うことのできる直弟の数についての制限はなかったため、結果として増上寺では膨大な数の所化僧を常に抱えていたのです。

参考文献
「浄土宗史」(『浄土宗全書』20)、「山門通規」(『増上寺史料集』3)

芸能

『蘆屋道満大内鑑』初演

10月に大坂竹本座で、竹田出雲作の人形浄瑠璃『蘆屋道満大内鑑』が初演されました。安倍保名と蘆屋道満との対立を主軸とし、保名に助けられた白狐(「解説」参照)が許嫁の葛葉姫の姿を借りて保名の妻となり子をもうけるという異類婚の話が織り交ぜられています。生まれた子はのちに名陰陽術師の安倍晴明となるのです。


『桜小町』初演

この年に江戸土佐座で、浄瑠璃『桜小町』が初演されました。浄瑠璃に累物の趣向を用いた最初の作品です。土佐浄瑠璃『吾妻業平色小町』の影響を受けながら、惟喬親王の謀反の話なども取り入れ、複雑な筋にしています。

参考文献
『歌舞伎事典』、「桜小町」(鳥居フミ子編、『土佐浄瑠璃正本集』1、角川書店、1972年)、「累狂言の趣向の変遷―『伊達競阿国戯場』以前」(東晴美、『文学研究科紀要』別冊第20集、早稲田大学大学院、1993年)、『近世芸能の研究―土佐浄瑠璃の世界』(鳥居フミ子、武蔵野書院、1989年)
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