明顕山 祐天寺

年表

享保18年(1733年)

祐天上人

自然木三尊、上覧

3月6日、自然木阿弥陀三尊像(享保16年「祐天寺」参照)が江戸城に迎えられ、吉宗が上覧されました。

参考文献
『明顕山起立略記』

千日参り地蔵尊、建立

白金本村の秋道が千日参りを遂げた記念として、祐天寺墓地に地蔵菩薩像1基を建立しました。碑文には、享保15年(1730)から享保18年にかけて浅草観音と目黒不動と祐天寺御影前に千日参りを行った旨が刻まれています。

参考文献
「祐天寺墓地の地蔵尊二基(第一墓地)」(中島正伍、『THE祐天寺』21号、1992年3月)

通外、遷化

三田大信寺住職であった通外が6月14日に遷化し、祐天寺に葬られました。祐天上人の旧従です。

参考文献
『本堂過去霊名簿』

油面高地蔵、建立

油面(目黒区)高地蔵には、昔眼病で失明した老婆が、夢告により路傍に埋もれている地蔵尊を探し当て祀ったところ、眼が開いたという伝説があります。油面の村民たちは享保18年の7月24日の地蔵盆の日に、この地蔵菩薩の供養を祐天寺に願い、子供の厄除けと死んだ子供たちの冥福を祈って六十六部供養塔を建立し、地蔵尊とともに祀りました。高地蔵は上に地蔵菩薩像、下に六十六部供養塔という2つの部分から成っています。総高は225センチメートル。供養塔に建立年月日と、願主観了の名が記されています(文政元年「祐天寺」参照)。

参考文献
「油面高地蔵尊と祐天寺」(中島正伍、『続祐天寺研究』、1988年)、「高地蔵(油面)」(宮崎敏子、『目黒区郷土研究』525号、1998年10月)

竹姫局の本性院、寂

7月25日、竹姫の局であった本性院が逝去し、祐天寺に葬られました。法号は本性院殿覚誉法順大姉です。本性院は享保13年(1728)に逝去した松平兵庫の娘であることがわかっています。松平兵庫を名乗る人物としては、越前家の支流松江松平の分家である広瀬松平家の近朝が享保13年に逝去していますが、法号と逝去の月日が違い、同一人物かどうか確認できません。

参考文献
『徳川諸家系譜』4、『本堂過去霊名簿』

松村半兵衛、寂

9月18日、松村半兵衛が逝去しました。法号は真誉峯月光船信士です。半兵衛は、夜余りの弥陀(寛延元年「祐天寺」参照)を感得した人物で、むらこと妙船(寛延元年「人物」参照)の義父です。

参考文献
『寺録撮要』1、『本堂過去霊名簿』

寺院

浅草観音で初の御成跡開帳

3月16日に葛西方面へ狩りに出掛けた吉宗は、その帰りに浅草伝法院に参拝(御成)されました。浅草伝法院とは現在の浅草寺のことですが、この頃の浅草寺は寛永寺の支配下にあって伝法院と称していたのです。このときに吉宗は本尊の観世音菩薩(浅草観音)を参拝します。この威徳をしのぶという意味を込めて、同月23日まで御成跡開帳が行われました。これが浅草観音の御成跡開帳の始まりでした。

参考文献
『江戸の開帳』(比留間尚、江戸選書、吉川弘文館、1980年)、『江戸学事典』、『徳川実紀』8

出版

『風流友三味線』

江島其磧(享保8年「人物」参照)著。浮世草子。5巻から成り、京の八文字屋八左衛門刊。享保17年(1732)刊の『けいせい歌三味線』と2部作になっています。
若狭国の侍である永田幸助が、なじみになった大坂新町の遊女揚巻に金をつぎ込んだことにより、幸助の家来の森山が幸助の不始末を自らかぶって切腹します。それに伴う周囲の苦悩、森山が抵当に入れた名刀菊一文字の行方と、それを所持する家の娘お菊と幸助および定七(実は森山の長男伝五郎)との恋の結末など、豊後節の「加賀お菊妹背中酌」をもとに改変を加え、複雑な筋書きとなっている作品です。

参考文献
『日本古典文学大辞典』、「累狂言の趣向の変遷―『伊達競阿国戯場』以前」(東晴美、『文学研究紀要』別冊第20集、早稲田大学大学院、1993年)

芸能

『契情藤戸源氏』初演

7月に京の姉川千代三郎座で、累物の歌舞伎『契情藤戸源氏』が初演されました。役者番付に載る角書には、「下総国羽生村・菊累解脱物語」とあります。

参考文献
『日本古典文学大辞典』、「累狂言の趣向の変遷―『伊達競阿国戯場』以前」(東晴美、『文学研究紀要』別冊第20集、早稲田大学大学院、1993年)
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