明顕山 祐天寺

年表

享保17年(1732年)

祐天寺

誕生寺法然上人像と岩船地蔵菩薩像、開帳

春、回向院において誕生寺の法然上人像が開帳されました。誕生寺は法然上人出生の地に建立された名刹で、この上人像は上人自作とされます(元禄6年「寺院」参照)。像が回向院に着くときと出発するときには、祐海は代僧を派遣して送迎を勤めました。開帳の期間中は3度参詣し、そのたびに目録を献じました。
また、4月1日より閏5月2日まで目黒不動の境内にある三仏堂において、岩船地蔵菩薩像(「説明」参照)が開帳されました。群衆が大勢参拝し、その折に祐天寺にも参拝する者が多く、例年の夏の千部修行のときほどの大変な賑わいを見せたのでした。祐海は地蔵菩薩像が目黒不動に到着されるときお迎えし、開帳期間中は7度参詣し、やはりそのたびに目録を献じたのでした。
地蔵菩薩を安置している寺院である岩舟山高勝寺より地蔵尊の御影を拝受して内仏とし、ていねいに祀りました。その際、供養のために鳥などの放生も行いました。

参考文献
『寺録撮要』4

宝松院雲洞、遷化

9月18日、宝松院雲洞が遷化しました。雲洞は祐天上人の旧従(宝永6年「祐天上人」参照)で、駒込願行寺から宝松院第6世住職を歴任しました。63歳でした。

参考文献
『本堂過去霊名簿』

説明

岩船地蔵尊

岩舟山(栃木県)山上に高勝寺という地蔵堂があります。宝亀9年(778)、僧明願の開基と伝えられ、天台宗に属します。明願は伯耆国(鳥取県)の僧でしたが、霊夢を見てこの地に至り、生身の地蔵菩薩を拝したといいます。

参考文献
『増補大日本地名辞書』(吉田東伍、冨山房、1992年)

寺院

知恩院見超、遷化

正月7日、知恩院の住職であった見超が遷化しました。2月2日、伝通院の往的が代わって第48世知恩院住職となりました。この年と翌年に全国的な飢饉がありましたが(「事件・風俗」参照)、その際に見超は伝供講中と協議して1万人に施米を行いました。


利天、増上寺住職に

8月22日に増上寺大僧正冏鑑が引退し、25日に麻布の隠室に移りました。増上寺諸堂の復興に努めた冏鑑は、この年の12月5日に遷化しました。
冏鑑の後任第40世に任ぜられたのは鎌倉光明寺の利天で、9月2日に入院しました。利天は2月に瓜連常福寺から鎌倉に転住したばかりで、1年のうちに2度の移住となりました。

参考文献
『浄土宗大年表』、『浄土宗大辞典』

芸能

『忠臣金短冊』初演

10月、大坂豊竹座で『忠臣金短冊』が初演されました。並木宗輔(宝暦元年「人物」参照)・小川丈助・安田蛙文の3人の共作です。元禄15年(1702)の赤穂浪士事件(元禄15年「事件・風俗」参照)は世間の人の耳目を集め、いく度も劇化されていました。その中の『無佐志鐙』や『碁盤太平記』の影響を受けて成立したのが本作品で、のちに生まれる名作『仮名手本忠臣蔵』(寛延元年「出版・芸能」参照)に直接影響を与えたと言われます。

参考文献
『歌舞伎事典』
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