明顕山 祐天寺

年表

享保16年(1731年)

祐天寺

阿弥陀堂宝珠、鋳物に

阿弥陀堂宝珠は木形に銅板を張ってありましたが、雨が染み込むため鋳物にするよう竹姫より指示があり、このとき新たに葵と牡丹の紋を鋳付けました。鋳物師横塚播磨大掾の作です。3月5日に完成し、銘文を彫り付けました。

参考文献
『寺録撮要』2

大森薬師堂、祐天寺末に

3月、祐益、泰禅(増上寺北谷泰淳寮)、香残の3人が同道して武州荏原郡西大森村の薬師堂へ見分に行きました。住職の欽応は増上寺三島谷覚瑩寮に所属していましたが、このたび出世し上京することになったので、薬師堂を祐天寺で引き受けることとなったのです。この薬師堂の本尊薬師如来を、将軍綱吉の養女である竹姫が篤く信仰していたためでもあるでしょう。3月7日付けの証文が作られ、大森薬師堂は祐天寺末となりました。また、近所の田畑を元文元年(1736)に買い取り、薬師堂領としました。この費用は祐海が寄付し、薬師堂永代に付けたのです。
薬師堂の住職は香残が勤めることとなりました。享保18年(1733)にはその弟子の願求も薬師堂に所属していたことがわかっています。
この薬師堂は以前は本芝法音寺の支配でしたので、享保18年には法音寺より薬師堂が祐天寺末となった旨の証文を受けました。

参考文献
『寺録撮要』5、「祐天寺末大森薬師堂」(伊藤丈、『祐天ファミリー』8号、1996年9月)

5千日回向

4月8日から10日まで5千日回向を勤めました。祐天上人遷化後、竜土において百日の回向をなし、祐天寺で3百日の回向をし、次いで5百日、千日、5千日の回向を2夜3日ずつかけて執行しました。

参考文献
『明顕山起立略記』

自然木三尊

6月3日、紀州の西定法師の紹介により木曽福島の新井得参が、自然木の阿弥陀三尊像を持参し奉納しました(享保18年「祐天寺」参照)。

参考文献
『明顕山起立略記』

清円大法尼、逝去

10月18日、有章院殿(家継)の乳人であった清円大法尼が逝去しました。祐天寺に納めてある法号は本隆院殿心誉清圓大姉です。施主は芦谷権九郎です。

参考文献
『本堂過去霊名簿』

円龍、遷化

12月23日、祐天上人が増上寺住職中に役者だった円龍が遷化しました。円龍は岩槻浄国寺第19世を勤めました。法号は誠蓮社諦誉上人不虚円龍大和尚です。

参考文献
『本堂過去霊名簿』、『岩付浄国寺志』(『浄土宗全書』20)

寺院

台徳院殿100回忌法要

1月20日から22日にかけて、増上寺で台徳院殿(秀忠)100回忌法要が営まれました。開白の導師は冏鑑が勤め、代参として松平乗邑(「人物」参照)がこれに参列しました。吉宗は24日に台徳院殿の霊廟に参詣し、また文昭院殿(家宣)、有章院殿(家継)の霊廟にも詣でています。

参考文献
『浄土宗大年表』、『徳川実紀』8

芸能

『大角力藤戸源氏』初演

市村座の盆興行で、歌舞伎『大角力藤戸源氏』が初演されました。作者は2世津打治兵衛です。近江源氏の世界、すなわち大坂夏の陣を鎌倉時代に仮託した作品です。この作品中の2段目『絹川紅ひの潮』で累の伝説が上演されました。悪女である女房かさねを三條勘太郎、かさね怨霊を市村竹之丞が演じました。累物の演劇としては最古とされています。興行は大当たりを記録し、それ以来市村座では累狂言を家の狂言と定め、1日に3部ずつくじ引きで『死霊解説物語聞書』を観客に配ったと言います。


『鬼一法眼三略巻』初演

文耕堂と長谷川千四との合作の人形浄瑠璃『鬼一法眼三略巻』が、9月に大坂竹本座で初演されました。全5段から成り、中心となる3段目切「菊畑・奥庭」では牛若丸が鬼一法眼の所蔵する「三略の巻」を手に入れようと苦心するありさまが、4段目切「大蔵卿舘」では作り阿呆で源平争乱の世を生き抜こうとする一條大蔵卿の姿が描かれます。
文耕堂は、近松門左衛門没後の享保期(1716~1735)の人形浄瑠璃界で最も活躍した作者です。

参考文献
『歌舞伎事典』、「演劇目録と上演年表」(中山幹雄編、『江東史談』214、1985年)、「南北累物狂言作劇考」(高橋則子、『文学』、1987年4月)、「累狂言の趣向の変遷―『伊達競阿国戯場』以前」(東晴美、『文学研究科紀要』別冊第20集、1993年)
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