明顕山 祐天寺

年表

享保15年(1730年)

祐天寺

知恩院の添え状、取得

将軍吉宗からは「祐天寺」という号を認められましたが、正式の綸旨を得るためには、まず総本山知恩院の添え状が必要となります。この件の担当となった祐達は、増上寺の添え状を持参して1月9日に江戸を出立し、上京しました。しかし知恩院では、祐天寺の名は知恩院帳面にも朝廷の帳面にもないということで、その添え状は増上寺に差し戻されてしまいました。そこで増上寺役者春沢に、祐天寺善久院が祐天寺と改名するいわれを説明する書状を送ってもらいました。こうして改名は認められ、綸旨を拝受できたのでした。

参考文献
『寺録撮要』2

羽生村キク、逝去

5月3日、累物語の主人公である羽生村のキクが逝去しました(寛文12年「伝説」参照)。菩提寺法蔵寺の墓石に記された法号は栄誉不生妙槃です。

参考文献
『本堂過去霊名簿』

祐海姉、逝去

6月17日、祐海の姉が逝去しました。法号は西誉壽光信女です。

参考文献
『本堂過去霊名簿』

月光院、念持仏を奉納

6月18日、月光院附き年寄の園田より来信があり、正徳3年(1713)に祐天上人が差し上げた念持仏(正徳3年「祐天上人」参照)を、祐天寺仏間に納めたい旨が伝えられました。年来拝まれた仏さまですが、俗家にとどめていてはのちのちの供養がおろそかになるのではと案じられてのことです。納めてのちいつでも城に移されて結構の旨、返事をしました。10月6日、月光院代参として年寄梅津(『明顕山起立略記』では海津)が来寺し、くだんの阿弥陀如来像を祐天寺に奉納しました。祐海はこの像を永代祐天寺内仏本尊として安置し、天下太平と有章院殿(家継)追善の供養をすると約束しました。
もともとこの仏像は祐海年来の念持仏だったのですが、故あって祐天上人に奉り、祐天上人から月光院へ差し上げたものであり、図らずもまた拝みながら、祐海はこれも仏縁であるとしみじみと感慨に浸ったのでした。
翌7日、祐海は吹上御殿の年寄宛てに礼状を出しました。如来像の奉納については御紋付の滅金5具足、同茶湯器、御紋付御供物三方5対、そのほかさまざまな道具、初穂料の奉納がありました。また月光院在世中は、正五九の月には如来像前に代参が立ち、年寄方が参拝されるのが通例となりました。この如来像の内仏殿は延享2年(1745)にできることとなります(延享2年「祐天寺」参照)。

参考文献
『寺録撮要』2

寺院

冏鑑、増上寺諸堂宇再興

増上寺冏鑑は、その在山中に祠社の建て直しなどをよく行いました。享保11年(1726)に晋山して以来、同13年(1728)には伝受仏と土蔵を増上寺に寄進し、同15年(1730)には本堂と方丈に安置されている本尊阿弥陀如来を再興します。同16年(1731)には、三門の外の南松原に護念堂(護国殿、黒本尊堂)を建立しました。

参考文献
『浄土宗大年表』、『縁山志』2・10(『浄土宗全書』19)

出版

『俳諧古今抄』

各務支考編著。蕉風俳諧論書、作法書です。上巻「再撰貞享式」、中巻「拾遺十箇条」、下巻「新製東花式」の全3巻から成ります。内容は松尾芭蕉の俳諧観、式目観に注釈または増補を加えたものです。
支考は芭蕉の門弟で、特に芭蕉晩年の俳風「軽み」に影響を受けた人物です。芭蕉亡きあとは東西に行脚して門弟を集め、また芭蕉追善の法会を催すなどしました。支考の一派は美濃派と呼ばれる一大勢力となりましたが、生前に自分の追悼集を出版するなど問題のある行動が多く、また俗談平話を大事とする彼一流の俳諧理論は俳諧の低俗化を招いたとされ、俳魔とも呼ばれました。しかし反面、俳諧の大衆化を促したことは支考の業績でもあったのです。

参考文献
『日本古典文学大辞典』、『俳諧古今抄』(佐々酩雪ほか編、俳諧叢書、博文館、1913年)、『朝日日本歴史人物事典』

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