将軍吉宗からは「祐天寺」という号を認められましたが、正式の綸旨を得るためには、まず総本山知恩院の添え状が必要となります。この件の担当となった祐達は、増上寺の添え状を持参して1月9日に江戸を出立し、上京しました。しかし知恩院では、祐天寺の名は知恩院帳面にも朝廷の帳面にもないということで、その添え状は増上寺に差し戻されてしまいました。そこで増上寺役者春沢に、祐天寺善久院が祐天寺と改名するいわれを説明する書状を送ってもらいました。こうして改名は認められ、綸旨を拝受できたのでした。
5月3日、累物語の主人公である羽生村のキクが逝去しました(寛文12年「伝説」参照)。
菩提寺法蔵寺の墓石に記された法号は栄誉不生妙槃です。
6月17日、祐海の姉が逝去しました。法号は西誉壽光信女です。
6月18日、月光院附き年寄の園田より来信があり、正徳3年(1713)に祐天上人が差し上げた念持仏(正徳3年「祐天上人」参照)を、祐天寺仏間に納めたい旨が伝えられました。年来拝まれた仏さまですが、俗家にとどめていてはのちのちの供養がおろそかになるのではと案じられてのことです。納めてのちいつでも城に移されて結構の旨、返事をしました。
10月6日、月光院代参として年寄梅津が来寺し、くだんの阿弥陀如来像を祐天寺に奉納しました。祐海はこの像を永代祐天寺内仏本尊として安置し、天下太平と有章院殿(家継)追善の供養をすると約束しました。
もともとこの仏像は祐海年来の念持仏だったのですが、故あって祐天上人に奉り、祐天上人から月光院へ差し上げたものであり、図らずもまた拝みながら、祐海はこれも仏縁であるとしみじみと感慨に浸ったのでした。
翌7日、祐海は吹上御殿の年寄宛てに礼状を出しました。如来像の奉納については御紋付の滅金5具足、同茶湯器、御紋付御供物三方5対、そのほかさまざまな道具、初穂料の奉納がありました。また月光院在世中は、正五九の月には如来像前に代参が立ち、年寄方が参拝されるのが通例となりました。この如来像の内仏殿は延享2年(1745)にできることとなります(延享2年「祐天寺」参照)。