昨冬より内談はあったのですが、武州入間郡大岱村(東京都東村山市)に古来からある地蔵庵を祐天寺末にしてくれるよう、名主、年寄、庵主の空信が願書を持って1月9日に来寺しました。末庵願いを受諾し、その旨を南武蔵野新田場役人へ書簡で届けました(「説明」参照)。
2月10日、祐海は土岐丹後守頼稔へ釣鐘堂建立を願い出ました。2月27日、建立許可が下りました。堂の大きさは梁間2間(約3.64メートル)、桁行2間です。
3月20日、仏師竹崎石見は天英院寄進の釣鐘の鋳造に取り掛かりました。墓地の脇に設置した鋳場で、朝から鋳造作業を行いました。この日の早朝から天英院より派遣された高山源右衛門から鋳造の祝儀を拝領しました。また、松平讃岐守頼豊が警護のため小笠原喜之丞組の足軽16人を派遣してくれました。喜之丞もともに来寺しました。この日に結縁した道俗はおびただしい数にのぼりました。
21日午前、土中の鋳型から、牛に引かせて釣鐘を掘り出し、完成しました。重さは450貫(1687.5キログラム)、高さ3尺3寸(1メートル)。祐海の求めにより、溶かした金銅の残りで、3寸3分(10センチメートル)の阿弥陀如来像も造られました。
4月14日から16日までの鐘供養の間、天気は快晴続きでした。祐天上人の葬儀以来、本堂入仏など祐天寺で行われたいっさいの供養および大法要の折に快晴でないことは一度もありませんでした。
鐘供養の3日間とも練供養と法要が行われ、結縁のため多くの群衆が詰め掛け、遅れてきた者は門を入れないほどでした。天英院より紫縮緬御紋付きの幕、金屏風、提灯が奉納され、荘厳用に使用されました。祐海は金襴七条袈裟を拝領し、増上寺に届けて着し、文昭院殿(家宣)17回忌追福の法要を勤めました。
天英院の代参として、14日には秀小路(享保13年「説明」参照)と桜井、浅瀬、高見以下の女中、15日には梅園、於曽恵、村井、藤沢以下の女中、16日には秀小路と於布貴、音羽、松崎、於古屋以下の女中が来寺しました。3日間に天英院附きのすべての女中が参詣されたわけです。毎日代参の女中に十念を差し上げ、御用人、御用達が1人ずつ詰めていました。御用人は長袴の正装で着座していました。
月光院、法心院、蓮浄院、寿光院などからは1、2日ずつ代参がありました。また、老中水野和泉守忠之(享保19年「人物」参照)の用人が中日に見舞いに見え、寺社奉行月番土岐丹後守の役人が中日に詰め、同じく方角係の井上河内守正如の役人も中日に来られました。
鐘の鋳造のときと同じく、高松中将頼豊より15人の足軽が3日間、喜之丞に率いられて差し向けられました。
供養仏は金銅3寸3分の阿弥陀如来像で、これは鐘が3尺3寸であることの象徴です。
鐘の撞き初めは祐海がまず三下し、次に秀小路が三下しました。
同月20日、天英院に鐘供養の祝いの品を献上しました。表向きは御杉重と昆布ですが、内献上(実際の献上品)は左のとおりです。
一、阿弥陀如来像 1躯
鐘供養の本尊であり、白木厨子入りの、金銅3寸3分の座像。
一、御持仏名号 1幅
祐天上人筆、表具、箱入。
一、お守名号 1幅
同筆、表具。
一、念珠 2連
樒の木製で、百八顆。
一、松虫鐘 1挺
鐘の銅の残りで鋳造し、撞木を添える。
一、私法語 1通
徳川家先祖が浄土宗を信仰した由来を述べたもの。
4月21日に竹姫は西の丸へ行き、前日に天英院へ祐天寺よりお渡しした金銅の阿弥陀如来像を拝されました。天英院は像を持仏壇の中央に安置され、深く信仰し、喜ばれている様子だったと、竹姫より女中を通して噂が伝わってきました。14日に祐海が3つ撞いた鐘の音は、はるか西の丸の天英院にも聞こえたそうです。御代参の時刻とぴったり合ったので大変喜ばれ、それを竹姫にも話されました。西の丸と祐天寺とは4里(16キロメートル)も距離が離れているのに稀代のことと言えます。
7月5日、時宗の僧であり、堂上派(「解説」参照)の歌人でもある好古堂連阿が逝去し、祐天寺に葬られました。墓石裏面には辞世と思われる、
うへをくは終のたきぎの友としれ
松も千年のかぎりある世に
という歌が刻されています。連阿は40歳頃から麻布に住み、諸国藩士や町人、僧らに和歌を教えました。家集に『竹葉集』、紀行文に『壺の石碑』などがあります。
この年に八丈島で、樺染の素地に祐天名号を織り出し、黄八丈の生地で表装した、「黄八丈阿弥陀名号軸」が制作されました。作者は菊池武喬の妻です。
大岱村(東村山市)は昭和末年頃に恩多と書かれるようになりました。この村の地蔵庵には祐天寺第6世祐全上人〔宝暦10年(1760)~寛政11年(1799)祐天寺在住〕寄贈の扁額が掛けられています。以前、この地蔵庵を大泉寺共同墓地に移転したところ、沿道に疫病が流行したため、地蔵のたたりであるとして、元の場所(昔の恩多の辻)に近い現在地(自治会館敷地内)に移されたそうです。
近くの火の見櫓(東村山市消防団第7分団管轄)に掛けられている半鐘は、祐海寄贈のもので、元来は地蔵庵が用いていたものです。地蔵庵が祐天寺末となった折に、祐天寺より寄贈されたものと思われます。もとは地蔵庵脇にけやきの大木があって、その枝に鐘を下げて使用していました。昭和10年(1935)頃から自警団が使用するようになりましたが、現在は当時の自治消防の象徴として保存されています。
正月、増上寺什金支出規定が成りました。知哲以来、代々の住職は忌料を村借にしておき、その利子で諸用に用いていたのですが、普請のおかげで元金が減少したので、御影堂修理や、そのほかの物品に対しての使い方を決めた支出規定を作成することになったのです。
太宰春台(元文5年「人物」参照)著の経済書。経済を論じる者は時、理、勢、人情という4つの観念を知るべきであるという深い思索に裏付けられた書です。しかし、具体的に目を付けている点はなかなか厳しく、葬式の折に棺に入れる六道銭は、火葬すれば灰となり、土葬すれば土となるから無駄である、また富士浅間湯殿などの山に登る愚民が噴火口に銭を投げ入れることがあるが、これも無駄であるなどと喝破し、紙銭を使うべきだと論じています。