明顕山 祐天寺

年表

享保13年(1728年)

祐天寺

1万部供養

千部供養を始めてから10年目を迎え、合わせて1万部となる記念に7寸5分(約25センチメートル)の阿弥陀如来像を新たに彫刻し、供養仏としました。7月26日、僧60人が行列を作り練供養をして、阿弥陀堂より本堂へこの供養仏を迎えました。1日中法要を行い、大勢の参拝者が集まりました。

参考文献
『明顕山起立略記』

起立などの書付、提出

祐天寺起立の由来と境内建坪、および御成(将軍の参拝)の数などを書付にして差し出すよう御鳥見高月忠右衛門より指示があり、8月5日に差し出しました。

参考文献
『明顕山起立略記』

文昭院殿尊牌を天英院が奉納

天英院は夫君である文昭院殿(家宣)の薨去後、祐天上人に法号を染筆してもらい、位牌、厨子を造って自身で供養していました。8月16日、お附き老女の秀小路(「説明」参照)を遣わしてその位牌を祐天寺に納め、永く供養するよう仰せ付けられました。位牌は本堂の須弥壇の上に安置し、年忌、祥月命日の供養をすることになりました。

参考文献
『寺録撮要』2

釣鐘、鋳造―その1

天英院は、文昭院殿17回忌追福のために釣鐘建立を決意されました。10月にお附きの老女の秀小路を通じて内意が示され、11月29日に用人酒井安芸守を上使として釣鐘と堂建立の旨が老中水野和泉守より仰せ渡しになったことを書付をもって告げられ、天英院より祐天寺へ入用金が下されました。鐘の大きさは上野寛永寺と同じ3尺3寸(約1メートル)にするようにとのことでした。年内はすでに日数が足りないので、早春から鋳造に取り掛かることとなりました。

参考文献
『明顕山起立略記』

説明

老女秀小路

天英院付きの老女であった秀小路は、釣鐘完成の供養の折にも祐天寺に代参し、釣鐘鋳造の施主天英院に代わってに鐘を撞いた人物です(享保14年「祐天寺」参照)。天英院から信頼の厚かったこの老女の出身が、下記のように鐘の銘に記されています。

「万里小路按察使大納言藤原雅房卿女秀小路」

天英院は京の公卿、前関白近衛基煕の息女でした。近衛家は五摂家の筆頭格で、皇室とも血縁のある名門でした。天英院の周りには京から付いてきた女中が多かったようですが、秀小路もその1人で公卿の息女だったのです。

参考文献
『明顕山起立略記』

寺院

府内6か寺約定5か条の改訂

11月、増上寺録所は府内檀林約定5か条を改訂し、伝通院、誓願寺、天徳寺、霊山寺、霊巌寺、幡随院に通達しました。

その内容は、
1、6か寺の住職が無住で後任未定のときに施主大家より導師を頼むことがあ
れば、6か寺の役者が儀式を行う
2、紫衣の寺院が香衣の寺院の僧を儀式に招いたときも、ていちょうに待遇す
べきである

など、6か寺が互いに協力し合うことを求めたものです。

参考文献
『山門通規』(『増上寺史料集』3

出版

『両巴巵言』

撃鉦先生著。題名中の「巴」の字が色里のことを表すことでわかるように、本書の内容は吉原での出来事であり、遊里の暮らしぶりを漢文体で描いたものです。主人公の大人先生が吉原遊郭に行き、そこで見聞した風俗を描写しています。
この本は吉原細見(案内書)の一種として発表されたものですが、洒落本(「解説」参照)の始めであるとされています。

参考文献
『洒落本大系』1(高木好次ほか編、林平書店、1932年)
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