千部供養を始めてから10年目を迎え、合わせて1万部となる記念に7寸5分(約25センチメートル)の阿弥陀如来像を新たに彫刻し、供養仏としました。7月26日、僧60人が行列を作り練供養をして、阿弥陀堂より本堂へこの供養仏を迎えました。1日中法要を行い、大勢の参拝者が集まりました。
祐天寺起立の由来と境内建坪、および御成(将軍の参拝)の数などを書付にして差し出すよう御鳥見高月忠右衛門より指示があり、8月5日に差し出しました。
天英院は夫君である文昭院殿(家宣)の薨去後、祐天上人に法号を染筆してもらい、位牌、厨子を造って自身で供養していました。8月16日、お附き老女の秀小路(「説明」参照)を遣わしてその位牌を祐天寺に納め、永く供養するよう仰せ付けられました。位牌は本堂の須弥壇の上に安置し、年忌、祥月命日の供養をすることになりました。
天英院は、文昭院殿17回忌追福のために釣鐘建立を決意されました。10月にお附きの老女の秀小路を通じて内意が示され、11月29日に用人酒井安芸守を上使として釣鐘と堂建立の旨が老中水野和泉守より仰せ渡しになったことを書付をもって告げられ、天英院より祐天寺へ入用金が下されました。鐘の大きさは上野寛永寺と同じ3尺3寸(約1メートル)にするようにとのことでした。年内はすでに日数が足りないので、早春から鋳造に取り掛かることとなりました。
天英院付きの老女であった秀小路は、釣鐘完成の供養の折にも祐天寺に代参し、釣鐘鋳造の施主天英院に代わってに鐘を撞いた人物です(享保14年「祐天寺」参照)。天英院から信頼の厚かったこの老女の出身が、下記のように鐘の銘に記されています。
「万里小路按察使大納言藤原雅房卿女秀小路」
天英院は京の公卿、前関白近衛基煕の息女でした。近衛家は五摂家の筆頭格で、皇室とも血縁のある名門でした。天英院の周りには京から付いてきた女中が多かったようですが、秀小路もその1人で公卿の息女だったのです。