明顕山 祐天寺

年表

享保12年(1727年)

祐天寺

『法然上人行状絵図』上覧

正月26日、祐海は寺社奉行黒田豊前守直邦に召され、吉宗が祐天寺所蔵の『法然上人行状絵図』(享保6年「祐天寺」参照)上覧の思し召しがあることを告げられ、祐天寺に伝来する訳などについて詳しく質問をされました。黒田豊前守の、巻数、巻軸、表紙の模様など細かい部分にもわたる質問に、祐海は滞りなく答えました(前日の御忌の折に誦法を勤め、ちょうど関連する事柄をよく覚えていたと祐海は記述しています)。翌27日、役僧霊林を遣わして『絵図』についての書付を提出しました。
閏正月4日、祐海は森川出羽守内前田藤太夫に手紙を出し、記録から、宝永年間(1704~1710)から正徳2年(1712)までの間に文昭院殿(家宣)が『絵図』を上覧した日などを写してくれるように、内々に頼みました。
3月11日、黒田豊前守の指示により『法然上人行状絵図』を持参し、黒田豊前守が直々受け取りました。
5月23日、黒田豊前守に召され、直接『絵図』を返却されました。祐海は改めて受け取りました。上意の趣は、殊勝なる宝物である、ゆるゆると上覧、満悦に思し召されるとのことで、首尾良く退出しました。

参考文献
『明顕山起立略記』、『寺録撮要』3

祐天上人実弟、浄円大徳、入寂

正月26日、祐天上人の実弟である清誉浄円大徳が逝去しました。

参考文献
『本堂過去霊名簿』

抱え地問題、決着

4月10日、抱え地の問題(享保11年「祐天寺」参照)について黒田豊前守が増上寺役者弁弘を召して格段の計らいを示してくださいました。祐天寺の抱え地はそもそも享保3年(1718)に、増上寺も承知のうえで増上寺領の百姓が祐天寺に譲ったもので、年貢は祐天寺から増上寺へ納めていたのです。その節は不案内で奉行所への届けをしていなかったのですが、享保2年(1717)に出された法で百姓地は百姓にしか譲ってはならないとされていたのです。そこで老中に伺ったところ、祐天上人は増上寺隠居なので増上寺に相当するから、これまでどおりにせよということでした。その方針に基づいて、4月17日に祐海は、黒田豊前守から抱え地の印状を渡されました。

参考文献
『明顕山起立略記』

家重御成、宝物上覧

3月29日、家重が目黒筋へ御成になりました。その節、急に祐天寺に御膳所を仰せ付けになり、その際に宝物上覧を仰せ出されました。若年寄松平能登守を通じて上覧に供した品々は次のとおりです。
蓮糸五条袈裟(吉宗より拝領。正徳5年「祐天上人」参照)、錦織九条袈裟(承秋門院より拝領。正徳4年「祐天上人」参照)、鶴姫御筆物2巻、同筆阿弥陀三尊1幅、大僧正祐天身代わり名号(厨子入り)、大僧正祐天御舎利、大僧正祐天舌根です。

参考文献
『寺録撮要』4

祐益父、逝去

7月25日、のちの第3世祐益の父が逝去しました。法号は善珠院現誉受楽大徳です。

参考文献
『本堂過去霊名簿』

吉宗、御成

小納戸松下仙助、小普請方前波藤五郎らが来寺し、8月16日に吉宗が初茸山見分の折、祐天寺に立ち寄られる由を告げられました。腰置を据えましたが、15日が雨天につき16日の御成は延期となりました。
8月22日、小普請方ほか役人が再び来寺し、腰置の設置がありました。また同日、明日の玉川への御成を早く済まされて祐天寺へ立ち寄られることもあると、松下仙助からの伝言がありました。
23日、竹姫より椀重1組、切たばこ1箱などが御成に際して下されました。吉宗は同日玉川筋へ来られ、祐天寺への立ち寄りを仰せ出され、五本木の前田隠岐守抱屋敷初茸山に行かれ、七つ時(午後4時頃)過ぎ、徒歩にて祐天寺へ入御されました。すぐに本堂に行かれ、祐天上人肖像をご覧になり、近臣に対して祐天の像はよく似ている、きれいなでき栄えだと言われました。そののちお休み所へ入られました。祐海は、御成御門の外矢来の内で吉宗が通過されるのをお目見え申し上げましたが、その節「祐天寺初て今日の者也」という上意がありました。お弁当を済まされて七つ半時(午後5時頃)還御されました。その折は表門際で見送りました。献上物は枝折りの柿300余、大芋3苞(白木台下覆い付き)で、披露したうえで長持に入れ、「献上祐天寺」の張紙をして代官伊奈半左衛門の取り計らいで村人が本丸まで届けました。この日の供であった若年寄大久保佐渡守、御側衆有馬兵庫、小納戸松下仙助ほか100人以上を饗応しました。
翌24日、祐海は各所へお礼回りをしました。26日、寺社奉行黒田豊前守より呼ばれて参上しました。吉宗お立ち寄りにつき、銀子5枚を御付台で下されました。なお『目黒祐天寺宝物記』によると、この御成の節に祐海は『十八羅漢』を拝領したとあります。

参考文献
『寺録撮要』4、『目黒祐天寺宝物記』(天保9年、祐天寺蔵)

家重御成、御膳所

12月19日、御鳥見頭高月忠右衛門より手紙で21日に大納言家重の御成がある旨の連絡がありました。20日七つ時、小普請方鈴木九八郎ほか役人が来寺し、御膳所になる旨を命じられました。腰置などを夜中に据えました。翌日に献上のための水仙花を上杉両院へ頼んだところ、即刻届きました。
21日早朝、竹姫より御成の節の饗応に使うようにと蒸籠3組が届けられました。その日は快晴で、家重は高輪筋に御成なさいました。朝五つ時(午前8時頃)に江戸城を出て品川東海寺に立ち寄り、大崎の行人坂を通って別所前まで鷹狩をなさいました。八つ半時(午後3時頃)祐天寺へ表門より入られ、七つ半時に還御なさいました。その前後に2度庭で接見したのは前回の御成のとおりです。献上物は大根10本筵包み、水仙花1台(青竹の筒2つを並べたもの)です。2品を下を覆った白木の台に乗せて披露し、また代官伊奈半左衛門の取り計らいで村人に江戸城まで届けさせました。その日の供は若年寄松平能登守、御側衆大久保伊勢守、松平内匠ほかです。即日、寺社奉行小出信濃守と増上寺へ御成が無事に済んだことを届け出ました。
22日、祐海が自ら各所にお礼回りをしました。23日、小出信濃守より呼び出され、銀子5枚が下されました。

参考文献
『寺録撮要』4

伝説

吉宗、茶屋坂に立ち寄る

現在の目黒区三田2丁目にある茶屋坂の途中には彦四郎茶屋(別名、爺が茶屋)がありました。この茶屋は落語の「目黒のサンマ」の舞台にもなっており、3代将軍家光が鷹狩、8代将軍吉宗が鷹狩や祐天寺詣での折に立ち寄り、富士を眺めながら湧き出る清水で点てた茶を楽しんだと言われます。

参考文献
茶屋坂の清水の碑の銘文

寺院

見超、知恩院住職に

8月、遷化した了鑑に替わって、小石川伝通院の見超が知恩院第47世となりました。時に見超74歳。5年間の在住後、享保17年(1732)に79歳で遷化しました。

参考文献
『知恩院史』(藪内彦瑞編、知恩院、1937年)

出版

『女大学』

江戸時代中期以降に成立し広く普及した、女子を対象とした教訓書。本書の内容が貝原益軒(正徳3年「人物」参照)の著作『和俗童子訓』巻5をもとにして書かれたものであることから、本書は益軒の著作とされていますが、確証はありません。「総じて婦人の道は、人に従うにあり」や「万のこと舅姑に問うて、その教えに任すべし」というような女子の生き方や考え方に対する教えや女子教育の方法が書かれています。江戸時代には、寺子屋で教科書として使用されました。
慎ましく周りに従うようにと女子を教育することは封建制度を維持していくために重要でした。明治時代になってからも同じような内容の本が数十種類発行され、また明治中期以降には教育勅語と結び付けて教科書に利用され、第2次世界大戦終了まで使用されるなど、『女大学』は近現代に至るまで影響を持ち続けたのでした。

参考文献
「女大学について」(石川松太郎、『日本思想体系』34―貝原益軒・室鳩巣、岩波書店、1970年)、『日本史大辞典』
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