明顕山 祐天寺

年表

享保11年(1726年)

祐天上人

抱え地問題

7月20日、新地奉行による水茶屋場所の見分のため、高林市左衛門が来寺しました。高林は境内の四壁に総囲いにしていた抱え地を見とがめ、名主輿右衛門へ詮議となりました。遂に9月、寺社奉行黒田豊前守までこの問題が達し、吟味が数度にわたって行われ、祐海は抱え地についての願書を出しました(享保12年「祐天寺」参照)。

参考文献
『明顕山起立略記』

家重御成、御小休み

9月15日、祐天寺近在の前田家屋敷に初茸がたくさん出るので、大納言家重(のちの9代将軍。延享2年「人物」参照)は初茸狩りに御成になりました。その折、祐天寺にも御成になり、休息をとられました。表門より真っ直ぐ御影堂(本堂)に入られ、それからお休み所へ入られました。祐海はお目見えして献上物を差し上げ、供の方々を饗応しました。初茸も大簣に9杯も採れたそうで、このようなことも御成による吉兆であるかと人々は不思議に思ったそうです。家重は機嫌良く還御されました。

参考文献
『明顕山起立略記』

唐津清浄寺意詮、入寂

11月20日、唐津清浄寺住職の意詮が入寂しました。檀通上人の直弟で、祐天上人とは同門ということになります。法号は梵蓮社通誉上人意詮和尚です。

参考文献
『本堂過去霊名簿』

祐天上人妹、没

11月22日、祐天上人の妹が没しました。法号は然誉智法信女です。

参考文献
『本堂過去霊名簿』

寺院

冏鑑、増上寺住職に

白随に替わって増上寺第39世となったのは、鎌倉光明寺の冏鑑でした。幼い頃から学問において秀でた才能を現していた冏鑑は、増上寺山内で顧みられなくなった祠や社を建て直し、中絶されていた寺内での学業を再興させることに尽力した人物として伝えられています。また、遷化後荼毘に付されたあとに残った骨は舎利となり、舌はまるで綿のようで腐乱もせずに形が残っていたそうです。

参考文献
『大本山増上寺史』(村上博了、専修寺、1989年)、「縁山志」10(『浄土宗全書』19)

芸能

『北条時頼記』初演

4月8日から大坂豊竹座で西沢一風(享保12年「人物」参照)、並木宗輔(宝暦元年「人物」参照)、安田蛙文の3者共作の浄瑠璃である『北条時頼記』が初演されました。謡曲『鉢の木』にある佐野経世の話などを取り入れた(近松門左衛門の先行作『最明寺殿百人上臈』を大幅に援用)、北条時頼を巡る5段で構成された浄瑠璃です。大変な人気を博し、翌年の閏正月まで続演し、不況だった豊竹座にとって起死回生の作となりました。

参考文献
『日本古典文学大辞典』
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