正月8日、竹姫より常憲院殿(綱吉。竹姫の養父であった)と浄光院殿(綱吉正室の従姫。関白鷹司教平の娘)の位牌を阿弥陀堂へ建てることにつき、おふた方の膳具足、掛盤、三ツ具足などを納め、永く供養申し上げるよう指示がありました。
正月15日、江戸堀江町の森田仁右衛門が千部法要助成のために発起して、祐海に千部講会を願い出ました。1人毎月50銭ずつ4年間にわたって懸銭を出し〔ただし懸け切り(1回払い)は2歩〕、毎年7月20日に施餓鬼法要を執行するというものです。
元禄10年(1697)に森田直往からの寄進がきっかけで始まった松坂西方寺の1万日不断念仏(元禄10年「伝説」参照)は、この年めでたく結願しました。28年の歳月が流れていました。
2月10日、竹姫代参の局が来寺し、竹姫が法号と法衣を受けたく思っている旨を話していきました。法号は祐天上人がすでに与えられていたので、同じものを書いて渡しました。法号は法岸院殿信誉壽蓮祐光大法女です(寛保2年「祐天寺」参照)。法衣は新しく作り、追って差し上げることにしました。
4月13日に竹姫お附きの局が参詣し、阿弥陀堂で香剃式を済ませて石塔供養をし、仏間で五重相伝を済ませました。その際に、竹姫が局にことづけた、竹姫染筆の一枚起請文を下されました。
7月1日、祐天上人と同庵であった天室が入寂しました。法号は長蓮社団誉上人天室和尚です。一文字席のときに増上寺を隠遁した上人です。
8月20日、安養院円貞が入寂しました。祐天上人の代に寺家役者(増上寺録所の役職名。御霊屋料の出納の管理などを行った)を勤めた人物です。法号は然蓮社彰誉上人円貞和尚です。
11月26日、森田直往(本名は次郎兵衛宜暉、法号は光土院生誉直往大徳)が逝去しました。直往は祐天上人の長年の信者で、松坂西方寺の不断念仏の基礎を作った人物です(「説明」参照)。この年その不断念仏の結願を見届け、逝去したのでした。
祐天寺には森田を名乗る信者がいく人かいました。ここで、それらの人々を整理してご紹介しておきましょう。
1、森田市左衛門……紀州出身で、祐天上人が増上寺住職時代に奉公し、上人が一本松に隠居されているときに本尊の開眼を願い、それから日本回国に出かけました(『寺録撮要』2)。日本中の霊地霊山の土を集めて5年後に戻りましたが、すでに祐天上人は遷化されていました。市左衛門はその土を祐天寺の香残に預け、享保9年(1724)建立された祐天上人廟塔の下にその土が蒔かれました(享保9年「祐天寺」参照)。
享保20年(1735)に施主として人の供養を祐天寺に依頼しています。享保11年逝去の「江府本船町森田内」の「扶桑回国載誉清運」、享保10年逝去の「日本回国人」、「往誉得生大徳」は、それぞれ法号や説明から、森田市左衛門と一緒に日本中を巡った人物ではないかと思われます。また、市左衛門の家は本船町にあったことがわかります。市左衛門は紀州野上平野村の大日寺に葬られました(『本堂過去霊簿』)法号は本誉浄入。
2、森田直往……直往は本名を森田治郎兵衛宜暉と言います。法号は光土院生誉直往大徳です。紀州の富裕な商人で、菩提寺の松坂西方寺に元禄10年(1697)に500両を寄進し、不断念仏1万日が起こる基礎を創りました(元禄10年「祐天上人」・享保10年「祐天寺」参照)。享保10年11月26日に逝去し、祐天寺に葬られました。
3、森田仁右衛門……堀江町1丁目に住んでいた仁右衛門は、発起して千部講会を享保10年に始めました(「祐天寺」参照)。この辺りの土地に顔の広い人物だったと思われます。
?~安永元年(1772)
竹姫は清閑寺大納言 熈定の娘として生まれましたが、将軍 綱吉の側室である寿光院(大典侍)の姪にあたる縁から、綱吉の養女に迎えられました。宝永5年(1708)7月に松平肥後守正容の嫡子である久千代(のちの正邦)との婚約が整いますが、12月に久千代が早世してしまい入輿はなりませんでした。また、宝永7年(1710)8月に有栖川宮正仁親王との婚約が整い、11月2日には結納も交わしました。しかし、享保元年(1716)9月に有栖川宮は薨去され、またも竹姫は嫁ぐことができませんでした。2度も婚約者に先立たれた竹姫には「不吉」だという噂がまといつくようになり、その後は縁談もなかなか起きないのでした。
それを憐れんだのは8代将軍 吉宗でした。享保年中(1716~1735)に吉宗は竹姫を養女とし、島津家との縁談をまとめようとしました。しかし婿側では「不吉」な嫁だというので「もし竹姫が男子を生んでも正嫡にはしない。国元に側室の子がいるからそちらを嫡子とする」「隠居は国に住む(竹姫と同居を嫌ったと言います)」、「島津藩邸内に水道を引く許可をもらいたい」などの強硬な条件を突き付けたのでした。吉宗公はそれらの条件をすべて飲み、享保14年(1729)6月4日に松平大隅守継高へ縁組みし、12月11日に入輿させました。この折の豪華な嫁入り道具は吉宗の力のなせる技でした。
竹姫は祐天上人への篤い信仰でも知られています。享保4年(1719)には祐天上人像宮殿を建立寄贈(享保4年「祐天寺」参照)、享保9年(1724)には阿弥陀堂と本尊阿弥陀如来を建立寄進しています。(享保9年「祐天寺」参照)。また、享保20年(1735)には仁王門および仁王像を寄進しています。さらに吉宗や家重の御成のときには、ご休憩の際に召し上がるものとして献上物を祐天寺まで届けるなど、細かい気配りを忘れませんでした。
享保10年には逆修を行い、法号と法衣を受けています(「祐天寺」参照)。
宝暦10年(1760)10月29日に継豊の逝去に際して浄岸院と称し、安永元年12月5日に逝去しました。嫁ぎ先である薩州鹿児島の福昌寺へ葬られました。