明顕山 祐天寺

年表

享保09年(1724年)

祐天寺

阿弥陀堂、建立

正月15日より阿弥陀堂の工事が開始されました。すでに享保8年(1723)12月に下目黒の大工棟梁小林庄右衛門、地割浜田仁兵衛、肝煎武石甚右衛門の3人に工事を依頼し、前年の12月24日に釿初めが行われていました。
3月28日に柱立初めが行われ、餅、神酒、洗米を供えました。翌29日に施主竹姫の新御殿へ柱立の供え物、洗米を差し上げました。
4月13日、阿弥陀堂上棟。大工棟梁はじめ皆上下を着し、堂上にて儀式のあと、四方へ数千の撒き餅、3貫文の撒き銭をし、棟梁ほかすべての関係者へ祝儀を配りました。近在へも赤飯を配りました。翌14日、新御殿へ上棟の供え物、神酒、赤飯をお届けしました。
棟札には祐天上人真筆名号を納め、『無量寿経』の一節より「建立常然 無衰無変」と書かれました。施主竹姫、願主祐海らの名とともに、祐天寺の中で普請の世話をした利億、義察、祐益の名も書かれています。
閏4月8日、阿弥陀堂の下に納めるようにと竹姫御落髪1箱が届けられたので、須弥檀の下に石の箱に入れて納めました。竹姫からはそのほかにも、阿弥陀堂荘厳のための水引、打敷、幢幡、幡などが紋付きで納められました。また、紋付き紫縮緬幕、晒幕、紋付き大提灯6張、弓張提灯5張も寄進されました。

参考文献
『寺録撮要』2

祐天上人廟、建立

2月22日、再び廟所取立て願いを増上寺に提出しました。3月21日、増上寺役所より呼び出され、祐海が参上したところ、建立の許可がおりました。早速建造に取り掛かり、閏4月13日に廟宝塔が成就しました。巳の刻(午前10時頃)に遺骨をまず御影前に安置し、回向してから本堂より僧衆が行列して廟所に運びました。廟所の四方は白幕で囲い、幕内へ遺骨を入れて回向してから六角台石の内へ瓦箱に入れ、硯石に銘文を切り付け朱塗りで止めてこれを入れ、箱の上下を漆喰で固めました。上に丸い台石、蓮華座、宝塔を建てました。祐海はじめ利億、檀的、祐益、香残、祐達、いずれも焼香拝礼して感涙にむせびました。この廟塔の下には、日本60余州の霊地霊山の土を欠かさず集めて納めました。この土は、祐天上人が増上寺住職であった頃に上人に奉公していた森田市左衛門という者が、日本回国に出て5年かかって持ち帰り納めたものです(享保元年「祐天上人」・享保10年「説明」参照)。香残が受け取っておいて、このたび廟所の下に納めました。
祐天上人のご遺骨の多くはこの廟に納められましたが、一部は舎利塔に納められ、のち衆人に拝させたのです。
なお、廟所の入口には立像の石地蔵菩薩が立っています(宝永3年「祐天上人」参照)。

参考文献
『寺録撮要』2・3

阿弥陀堂入仏供養

5月12日、阿弥陀堂ができ上がり、入仏供養が行われました。本堂で四奉請、四誓偈、念仏回向を行ったのち、大衆が2列で本堂から練り出し、阿弥陀堂を3辺回りました。それから阿弥陀如来を須弥檀上へ奉安し、如来前へ三汁十一菜と菓子、茶湯を捧げました。導師祐海をはじめ祐益、祐達、経僧霊林、寛雄、祐弁、祐門、祐義、祐的、義潭、梵潮、檀的そのほかに楽僧、また種々の供え物を持つ僧など、多くの僧侶が行道に参加しました。そのあと経が供養されました。竹姫よりの代参として100人余りが見え、またさまざまな供養物が阿弥陀如来前へ捧げられました。
翌13日、入仏供養が滞りなく済んだ祝いとして供え餅、青物1かごが、竹姫より如来前に捧げられました。

参考文献
『寺録撮要』2

千部、危うく禁止

3月20日に祐海が寺社奉行黒田豊前守へ千部法要の願書を提出し、27日に御内寄合に出席したところ、千部法要は変則的な行事なので毎年勤めることはならない、今後は千部法要をしないという証文を書くよう命じられました。祐天寺は最近できた寺なので檀家もなく、それでは寺の持続が困難になると祐海が訴えると、今年は勤めて良いが来年以降はやめるよう申し渡されました。
このことを4月28日に吹上御殿年寄の園田が来寺した折に話すと、園田は帰って月光院に話しました。月光院はこれを気の毒に思われ、将軍吉宗に話されました。7月15日、園田より来年以降も千部法要が許可されるから願い出るようにとの手紙が来ました。7月26日の千部終了と同時に来年の願書を出すと、翌27日の黒田豊前守内寄合にて翌年以降10年間の千部法要の許可がおりました。
28日に祐海は吹上御殿へ手紙を出し、このたびの一件について心から感謝の意を伝えたところ、園田からもまた月光院も満足に思っている旨のていねいな返書が来たのでした。

参考文献
『寺録撮要』3

前宝台院住職欣説、入寂

11月13日、宝台院の前住職である欣説が入寂しました。祐天寺に宮殿を寄進した人物です。法号は光蓮社瑞誉上人即到欣説大和尚です。宝台院とは、静岡にある浄土宗の金米山竜泉寺のことで、徳川秀忠の生母が葬られています。

参考文献
『本堂過去霊名簿』、『浄土宗大辞典』

伝説

産後の病苦、去る

奥州米沢(山形県)東町庄司理兵衛の妻は享保9年冬の初めに安産しましたが、そののち当時はやっていた風邪にかかって長く患い、翌享保10年(1725)6月下旬にはひん死の状態となってしまいました。病人の兄は出家して香残と言い、そのとき祐海に従って祐天寺にいました。妹の危篤の様子を理兵衛の友人である金屋彦六から書簡で知らせると、香残は深く憐れんで臨終正念のためにと祐天上人の拝服名号10枚を乞い受けて送りました。理兵衛は大変喜び、妻も「へんぴなところなのに、ご縁で祐天上人の名号をちょうだいできたのもありがたいことです。生きることはできそうもないので臨終正念のためにいただきます」と名号を1服呑みました。すると数か月の病苦がたちどころに消えたのでした。7月23日の夜、看病の人が「ただ今が臨終です。皆念仏してください」と言いました。妻は、西の壁に掛けた祐天名号に向かい合掌して念仏しながら息絶えました。34歳でした。
また、金屋彦六の親類の娘が同年秋に病気にかかり、総身が黄色になって腫れ膨れてしまったのを、名号を1服もらって呑ませたところ、その日より食欲が出て病苦は去り、20日ほどのうちに全快したということです。

参考文献
『利益記』下

焼けずの名号

祐天上人の書かれた名号にはいくつか「焼けずの名号」として伝わるものがあります。上人82歳の年に書かれた1幅が祐天寺に伝わりますが、その軸の裏に由来書が貼ってあります。それによると、この名号は難波の寺嶋氏の所有でした。寺嶋氏は一向宗徒でしたので、自宗の仏像の傍らに掛けてありました。享保9年に大規模な火事が起こり(「事件・風俗」参照。このときの火事か)、寺嶋氏の家も灰燼に帰してしまいました。名号の軸も焼けましたが、六字の名号の文字だけはくっきりと焼け残っていたのです。その後この名号は寺嶋氏より増上寺紫雲寮仏戒に譲られ、仏戒が宝暦元年(1751)に由来書を書いたのでした。

参考文献
「焼けずの名号」とその由来書(祐天寺蔵)

寺院

3尺以上の仏像の製造禁止

大きな仏像を車に乗せるなどして持ち歩き、人々に勧進を求めることを禁止する法令が9月に出されました。また同時に、仏工や鋳工に対し、3尺(約1メートル)以上の仏像を作る際には奉行所の許可を受けなければならないという法令が出されました。おそらくこれは、吉宗の倹約奨励の一環と言えるでしょう。

参考文献
『徳川実紀』8、『浄土宗大年表』
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