明顕山 祐天寺

年表

享保8年(1723年)

祐天寺

印状の届け

正月13日、祐海は松平相模守に召され、祐天寺善久院を祐天寺と改めたこと(享保7年「祐天寺」参照)について、新地方へ書類を渡すように通告されました。22日、新地方の伊藤伝十郎に呼び出され、手続きを行いました。

参考文献
『寺録撮要』2

於古牟の方、逝去

2月21日、吉宗側室の於古牟の方が逝去しました。紀州藩士竹本正長の娘で、蓮糸の袈裟を手ずから縫われて祐天上人へ贈られた方(正徳5年「祐天上人」参照)です。33歳でした。まだ9歳だった子息小次郎は享保14年(1729)に元服して宗武と名乗り、享保16年(1731)田安家を創設することになります。

参考文献
『国史大辞典』、『徳川吉宗のすべて』(安藤精一ほか、新人物往来社、1995年)

吟達、示寂

3月2日、百萬遍知恩寺第43世住職、吟達が示寂しました。吟達が増上寺の役者であったとき〔元禄11年(1698)〕、祐天上人が知恩寺に修復料および日牌料として金200両を寄進しました〔『百萬遍知恩寺誌要』では正徳2年(1712)であり、寄付の名目も異なります〕。

参考文献
『百萬遍知恩寺略歴』(明治35年8月写、知恩寺蔵)

千部法要、準備

3月12日に寺社奉行牧野因幡守へ千部法要の願いを出し、27日に許可が出ました。

参考文献
『寺録撮要』3

竹姫、阿弥陀如来と阿弥陀堂を寄進

4月23日、竹姫が参詣来寺しました(『明顕山起立略記』では5月に竹姫局が代参とある)。かねてから祐海の阿弥陀堂建立願いのことを聞き及んでおられたので、その本尊阿弥陀如来を造立したいというご意志でした。祐海は堂の建立も願いました。5月13日の竹姫附き年寄からの手紙でこれらが受諾されたので、祐海は阿弥陀如来造立を神田の仏師小堀浄運に申し付けました。仏具は仏師竹崎石見が受け持ちました(棟札に記載がある)。

9月4日、祐海は阿弥陀堂建立願いを寺社奉行月番の土井伊予守へ提出しました。9月6日に願いは許可されましたが、御成先の寺であるから何事も目立ちすぎないようにと戒められました。9月16日、竹姫より阿弥陀如来の腹中へ納める品が届けられました。書写した名号1万遍分です。3包みの名号は22日に小堀浄運のもとへ使僧香残により届けられました。

11月12日、阿弥陀如来像ができ上がり、小堀浄運が祐天寺へ供奉してきました。本堂に安置し、15日に開眼法要を行い、参詣の道俗へ赤飯を出しました。翌16日、竹姫方より迎えが来て、本尊、台座、光背の3荷に分けて竹姫の新御殿へ渡しました。19日、新御殿でお重1組、紗3抱、浅黄綸子1反、羽二重1匹その他の供物を如来前に供えました。23日、阿弥陀如来が祐天寺に帰られました。

参考文献
『寺録撮要』2

祐天上人廟所の決定

廟所については、享保7年(1722)10月28日の御成先見分の折、小納戸方役人にも相談したとおり、祐海は場所変更を希望していました。そこで4月12日に増上寺へ行き、東北の抱畠の中に建てたいと願い出ました。輪番観智院の許可を得て、20日に観智院、清光院の見分を受けました。下目黒と中目黒の名主も同席しました。

21日、増上寺学寮にいる檀的を通じて観智院から連絡があり、軽い身分の者の墓地ではないので増上寺住職、寺社奉行へも許可を取ったほうが良いということでした。再度6月3日に増上寺へ行って許可を願ったところ、役者中より廟所が境内にないのはよろしくないのでは、などの不審が示されました。祐海はこれに答え、さらに境内境外年貢の書付も提出しました。この件の許可は翌享保9年(1724)3月21日になってやっとおりるのでした(享保9年「祐天寺」参照)。

参考文献
『寺録撮要』2
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