明顕山 祐天寺

年表

享保7年(1722年)

祐天寺

年寄梅津、寂

松姫お附きの年寄梅津が寂しました。松姫の代参として祐天寺にも来寺の記録がある老女です。
法号は慈光院天誉花月貞春大法尼と言います。

このように、大名家の姫君が祐天上人を信仰していた場合、お附きの老女、侍女たちも揃って深く帰依している場合が多いのでした。

参考文献
『本堂過去霊名簿』

檀栄祖父、逝去

3月25日、のちに祐天寺第4世住職となる檀栄(祐令。初めは檀英と号した)の祖父が岩城で逝去しました。息子は岡田五郎右衛門と言い、その嫁が祐天上人の甥の政明の娘なのです。法号は迎誉西岸信士です。

参考文献
「新妻家略系図」

千部法要

3月12日に千部法要の願書を松平対馬守へ提出し、27日に許可を受けました。6月22日に出した小屋掛けの願いも26日に認可されました。

参考文献
『寺録撮要』3

祐天寺の寺号、許可

祐海は祐天上人の遺志で建立した寺に「祐天」の名を冠した名を付けたいという希望をずっと持っていました。月光院に切々たるその気持ちを訴えたところ、願いがかなうことになりました。

4月6日に寺社奉行月番松平対馬守に呼び出され、このたび月光院の願いにより将軍吉宗の許可がおり、「祐天寺善久院」の寺号が「祐天寺」と改まることとなったので、帳面を改める間新地方に印状を渡すようにとの達しでした。祐海の喜びはひとしおで、早速各所へお礼に回り、増上寺にもその旨を届けたのでした。

参考文献
『明顕山起立略記』

新妻政明妻、没

5月6日、新妻小左衛門政明順性の妻が没しました。政明は祐天上人の甥(妹の息子)です。
法号は性誉智法信女です。

参考文献
「新妻家略系図」

御成延期

10月28日、小納戸松下仙助をはじめ、小普請方、畳方、鳥見衆3人が祐天寺に来て、碑文谷池御成の際のお休み所を命じられました。境内境外の見分の折に、祐海は祐天上人廟所の場所について、最初の予定地では風が強く当たるので別の場所にしたい旨を松下仙助へ話しました。

11月1日、暮れ方より雪が降り始めました。しかし、明日2日は御成がある予定なので、役人が来て腰置き、馬立てなどを設置していきました。月光院より蜜柑の手かごが台付きで届けられました。御成の節に献上するようにと手紙が添えられていました。しかし雪は降りやまず、2日の御成は延期になりました。

参考文献
『寺録撮要』4

西応寺寂天、入寂

11月30日、芝西応寺の寂天(昭蓮社遍誉上人心存寂天和尚)が入寂しました。寂天は祐天上人の弟子で、祐天上人は麻布一本松から竜土へ移るまでの間、4か月ほど西応寺に仮寓していたこともありました(享保2年「祐天上人」参照)。

参考文献
『本堂過去霊名簿』

伝説

鶴田一夢、没した娘から名号を得る

御持弓神尾左兵衛の支配同心の組頭であった鶴田という者は、剃髪して一夢と号していました。その娘は嫁いでいましたが早世しました。一夢は熱心な念仏信者で祐天名号を拝受したいと長年思っていましたが、つてがなくて月日を送っていました。

享保7年9月のある夜の夢に、先立った娘が来て「長年ご所望だった名号を私がいただいてきてあげました。近いうちに手に入りますよ」と言いました。

同じ月、牛込早稲田宗源寺に四十八夜の念仏があり、人々が群参しました。一夢も参詣しようと思い向かう途中で、浄心という念仏仲間に出会いました。浄心も宗源寺へ行くところなので同道していくと、浄心は不思議な夢を見たと語りました。

20歳ばかりの美しい婦人が来て、「あなたのお持ちの祐天名号2幅のうち1幅を一夢に譲ってください」と言ったというのです。浄心は「簡単なことです。ことに一夢は後世に1つの蓮に乗ろうと誓った念仏仲間ですから、どうして惜しみましょう」と承知したところ、うれしそうにほほえんで一礼して去っていったところで夢が覚めたというのです。「今日の帰りにあなたの家に寄って譲ろうと思っていたところ、道で行き会うとはやはり因縁ですね」と言って、懐から名号を取り出して一夢に渡しました。一夢は落涙して「私もこのことを夢に見ました。その女は私の娘です」と言って自分の夢を語りました。

参考文献
『祐天大僧正利益記』下

亀戸祐天堂、建立

亀戸の境橋のたもとにある祐天名号石塔(元禄4年「祐天上人」参照)を祀る祐天堂は、享保7年に建立されたと地元で言い伝えられています。

参考文献
「祐天堂」(『聞き書き ここらへんの歴史』墨田区立第一吾妻小学校92年度6年生、1993年)
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