明顕山 祐天寺

年表

享保06年(1721年)

祐天寺

文昭院殿の能装束、拝領

2月17日、祐海は月光院より文昭院殿(家宣)の能装束5枚を拝領しました。袈裟に仕立てて、永く着用するようにとのことでした。

参考文献
『寺録撮要』3

月光院、落飾

3月14日、寺社奉行牧野因幡守より呼状が来て祐海が参上したところ、来る21日に月光院(享保5年「人物」参照)の御用につき吹上御殿へ行くようにとの命でした。その夜は遅くなったので船町の森田直往(次郎兵衛、享保10年「説明」参照)方に泊まり、翌15日に老中・若年寄・寺社奉行の方をお礼に回りました。18日、次郎兵衛が祝いのため来寺しました。また、この日より3日間、護念経1、000部を読誦するよう弟子たちに申し付けました。このたびの御用が首尾良く済むように祈願したのです。20日には吹上御殿の用人安藤志摩守より来信があり、明日は四つ半時(午前10時頃)に参上するよう指示がありました。
21日は快晴でした。暁六つ時(午前6時頃)出駕し、四つ半時登城しました。玄関まで駕籠を許されました。玄関には御用人、詰衆、女中方が出迎えており、ここで十念を授け、昨日は大雨のところ今日は晴れ渡り、月光院も満足に思われている由、承りました。それからお茶、湯漬けなどが出され、留守居役の松前伊豆守のあいさつを受けました。
2月に拝領した文昭院殿能装束で作った九条の袈裟と座具、念珠を具して伊豆守らの案内で御錠口に着座しました。しばらくして老女衆の案内で御前に出ました。月光院は上殿しとねの上に緋の袴で着座されていました。祐海が下段に進んで献上物を老女に渡し、ごあいさつとご披露があると、御意で上段へお召しを受け、月光院手ずから昆布を下され、また下段に戻りました。月光院も下段に降りて着座されて祐海が十念をお授けし、それからしばらくねんごろに物語をしたのち、祐海は老女方の案内で仏間に行き、剃髪の儀式を執り行うために阿弥陀如来の前に祐天上人80歳像(享保元年「祐天上人」参照)を荘厳するなどの指南をしてから休息所に退きました。
午の刻(正午頃)落飾のため、祐海は先頃お召しを拝領して作った金襴七条袈裟を着して仏間に行きました。月光院は白衣を召され下段で三礼され、それから上段座具の上に着座されました。焼香三拝があって剃刀を取り、作法どおり行いました。その後、次の間で祐海は装束を改め五条袈裟を着して落飾申し上げました。介添えの老女は六条、海津、園田の3人のみで、そのほかは老女でも同席の許可はありませんでした。
作法のあと祐海は説法をすると、月光院が手ずから琥珀の念珠をくださいました。月光院は黙したままでしたが、年来の願望を遂げて満足の体を示されました。祐海には退座ののち三汁十一菜が供されました。銀子10枚、色縮緬5巻その他の下賜品は黒塗り御紋付きの長持に入れ、使者2人を添えて寺まで運ばれました。祐海が各所へのお礼回りやあいさつを済ませて帰寺したのは、夜四つ時(午後10時頃)でした。暮れ方に吹上御所を出るとき、御所より葵紋付き提灯4張をくださったのでお礼回りのときはそれを使用しました。
翌3月22日、祐海は吹上御殿に昨日のお礼を申し上げに伺い、また寺内に拝領物を配りました。4月7日、吹上御殿の老女園田、表使い浜岡が参詣来寺し、落飾が首尾良く済んだことについてあいさつがありました。5月1日、吹上御殿より御紋付き油単の掛かった長持2棹が届きました。21日参殿の折に饗応していただいた膳椀10人前、受戒の節に用いた赤地金襴の座具などが送られてきたのです。寺の什宝にもと思し召しの由とのことでした。
5月8日、月光院へ代参のお礼を兼ねて念珠2連と小五条袈裟2衣を差し上げました。

参考文献
『寺録撮要』3、『明顕山起立略記』

『祐天大僧正実録』下書本、成立

5月、尾張出身の含蓮社懐誉霖霓(字は隆峯)が、祐天上人の事績を『祐天大僧正実録』完・附2巻にまとめました。この『実録』は、前年成立した『略記』と似た部分を持ちながらも異なる記述も見られます。「完」が本文、「附」はそれを補う注釈という構成です。

参考文献
『実録』完・附

千部法要

3月26日に牧野因幡守へ例年どおり千部法要を行いたいという願書を提出し、4月5日に伺ったところ、4月6日の酒井修理太夫宅寄合に出るよう達しがあり、その席上で許可されました。6月21日、千部期間中の小屋掛けを以前のとおり行う願書を出し、これも24日に認められました。

参考文献
『寺録撮要』3

月光院より『法然上人行状絵図』、寄進

8月2日(『明顕山起立略記』では3日)、月光院より文昭院殿(家宣)の写させた『法然上人行状絵図』48軸と、同目録(安井門主前大僧正道恕筆)がたんすに入れてもたらされました。この『絵図』は知恩院什宝に納められていましたが文昭院殿が上覧され、嘆賞のあまり磨滅までそっくり写させたものです(正徳元年「寺院」参照)。文昭院殿が秘蔵しており、その後月光院へ遣わされました。月光院の厚い思し召しにより、これらが祐天寺へ奉納されました。御用の節は仰せがあるので差し出すようにとの言葉を添えてくだされたのです。

参考文献
『寺録撮要』3

祐頓、天徳寺へ

12月18日、鴻巣勝願寺第17世である祐天上人弟子の祐頓(正徳3年「祐天上人」参照)が、天徳寺の住職となりました。

参考文献
『鴻巣勝願寺志』(『浄土宗全書』20)

伝説

針を呑むが助かる

5月25日、江戸芝中門前2丁目に住む六兵衛の下男で長助という者は、外出して遅く帰り、急いで食事をしました。ところが飯の中に折れた針が入っており、知らずに呑み込んで喉に刺さってしまいました。苦痛はひどく、家内の者が何とかしようとしてもどうしようもありません。しかし、六兵衛がふと思い付いて祐天名号を拝服させたところ、長助はほどなく嘔吐して、針は名号にまとわれて出てきました。苦痛もやみ、長助はもちろんその場にいた者は皆感心して念仏信仰を深め、祐天上人の徳を改めて知りました。


餓死の悪霊、得脱

三枝丹波守の家士伴武兵衛の妻は、狂気して大声を挙げて騒ぐことが17年にもわたりました。その間に母、兄、夫に先立たれましたが、これを嘆くこともわかりませんでした。武兵衛の妻の妹にりつという者がおり、貴い身分の方に仕えていました。姉のことを嘆いて稲荷明神を念じ、狂病平癒を祈りました。ある夜の夢に異人が来て告げたことには、「先年餓死した霊魂が、親族もなく弔う者もなくて苦しんでいる。姉の病気はその霊魂のせいだから、まずその霊魂のために追善供養をしなさい」ということでした。目が覚めてりつはありがたく思い、早速追善の念仏を勤めました。姉にも念仏をさせましたが、悪霊が退散する様子は見えません。自分1人の力では及ばないのだろうと考え、同行を募って祐天上人の名号を受け、病気の姉を中に囲んで7日の百萬遍を勤めました。すると10余年の狂病がたちどころに消え、姉は正気に戻って念仏を称えたのでした。享保6年12月のことでした。

参考文献
『利益記』下

寺院

大奥への符ろく進上の停止

符ろくとは、道教における未来のことを予言した文書のことで、一種の未来記でもあります。大奥から目をかけられた寺社などが、寛永年間(1624~1643)から将軍家継の時代にかけて、この符ろくを毎年大奥へ進上する習慣がありました。しかし享保6年2月、特定の7か寺以外からの大奥への符ろくの進上が禁止されました。特定の7か寺とは竹生島吉祥院、湯島霊雲寺、西久保円福寺、西久保真福寺、本所弥勒寺、浅草大護院、麻布東福寺です。

江戸大火で寺院類焼

この年、江戸では年の始めから3月頃にかけてたびたび火事に見舞われました。なかでも3月に牛込払方町から起こった火事により、寛永寺、浅草寺仁王門、伝通院などが焼失してしまいます。
この3月までに起こった火事では14万1、000余戸が焼け、死者は2、000人にも及んだそうです。

参考文献
『徳川実紀』8、『近世生活史年表』、『年表日本歴史』5

芸能

『女殺油地獄』初演

近松門左衛門(貞享4年「人物」参照)作の人形浄瑠璃『女殺油地獄』が大坂竹本座で初演されました。河内屋の息子の与兵衛は、番頭上がりの父親が甘いのを良いことに放蕩を重ねますが、金に困って隣家の油屋の豊島屋の女主人お吉に借金を申し込み、断られてお吉を殺してしまいます。初演当時は人気が出なかったのですが、刹那的に犯行を行う与兵衛の姿に現代の非行少年と共通するものがあり、現代性を持つ戯曲として今ではたびたび上演されています。

参考文献
『歌舞伎事典』
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