元日、白矢八幡(享保3年「祐天上人」参照)を祐天寺に勧請し、祐海はその矢の由来を桐板に書きました。
2月20日、承秋門院(東山天皇中宮。正徳4年「祐天上人」参照)が薨御されました。承秋門院は、祐天上人に帰依し血脈も受けた信者でした。享年41歳でした。3月5日、京の泉涌寺に葬られました。
3月2日、千部法要の願いを寺社奉行役人の寺井三右衛門に提出しました。昨年のような7月16日から25日までの法要を、今後毎年行わせて欲しいという内容です。その件について呼び出され、4日に祐海が参上したところ、今年だけの願いにするよう達しがあり、そのように直して願書を出しました。そして6日に再度参上し、千部法要が許可されました。
また6月13日、千部期間中に出す水茶屋について願書を出すよう達しがあり、19日に提出しました。
2月26日、書院造立の釿初めが行われました。3月15日に上棟式が行われ、4月上旬に書院が完成しました。これは、祐天上人が隠棲されていた竜土町の禅室書院の建坪を引き移して建てたものです。
7月15日、祐天上人の3回忌にあたり、上人の事績をまとめた著書が編まれました。『武州荏原郡目黒墅明顕山善久院祐天寺開山前増上大僧正明蓮社顕誉祐天上人愚心大和尚伝略記』(『顕誉大僧正伝略記』)です。著者は弟子の陽亨。跋文にあるとおり、上人の徳を書きとどめ、それを多くの人々にも知らせ、自らの報恩にしたいという願いから書かれたものです。この書は祐天上人の伝記として確認されたもののうち、最も早く成立したものです。
9月20日、祐天上人の信者松姫(享保4年「人物」参照)が逝去し、伝通院に葬られました。22歳の若さでした。
11月14日に御鳥見衆の内山源五右衛門より手紙で、明日15日に若年寄の大久保佐渡守が将軍御成先の碑文谷池見分の折に貴寺にも立ち寄るという連絡がありました。当日、佐渡守は小納戸松下仙助らとともに来寺し、寺内寺外住居まで残らず見分されました。その折、書院の庭が狭かったため、東方に6間(約10.5メートル)21間半(約37.6メートル)の御用地を加えられました。
祐海は松本の清水山華厳院浄林寺本堂の扁額、「清水山」を揮毫しました。浄林寺は享保5年に本堂が焼失していることから、この再建時に揮毫したものと思われます。
松平采女の家臣、伊予国今治(愛媛県)の住人佐々木十郎兵衛の下女に、さきという者がいました。念仏の信者であり、享保5年に祐天名号を人からいただいたので非常に喜び尊崇供養していました。さきの父も念仏信者だったので父にも名号を贈りたいものだと思いましたが、辺鄙な地でもあり、たやすくは手に入りません。しかし、さきは名号に向かって心から祈っていました。ある日いつものように名号の前で念仏し、終わって拝伏し目を上げると、今まで1幅だった名号が2幅となっていました。さきは日頃の願いが通じたものと、喜び勇んで1幅を父に贈り、2人ともに信心を深めました。
貞享2年(1685)~宝暦2年(1752)
月光院は奥勤めに出て家宣の側室となってからはお喜世の方、左京の局と呼ばれていました。名は輝子と言います。貞享2年、勝田元哲著邑と松平伊勢守の家臣和田治左衛門の娘との間に生まれた娘だと言われます。元哲はもと加賀藩剣術指南役でしたが、浪人となり江戸へ出て、浅草唯念寺の僧侶となりました。月光院は美貌のうえに才知に恵まれ、遠縁にあたる矢島治太夫を後見人として甲府宰相であった松平綱豊(のちの家宣、宝永6年「人物」参照)の桜田御殿に上がり侍女として勤めました。やがて綱豊に見そめられ、側室となります。
綱豊が6代将軍家宣となると、月光院も一緒に大奥へ上がることになりました。綱豊の子はいく人かいましたが、正室天英院(名は煕子、寛保元年「人物」参照)との間に生まれた子は出生と同時に逝去し、側室 於古牟の方(法名は法心院)との間の家千代は生後3か月で夭逝してしまいました(宝永4年「祐天上人」参照)。お須免の方(蓮浄院)との間には宝永5年(1708)12月に大五郎が生まれました。その7か月後の宝永6年(1709)7月、月光院は鍋松(のちの家継、正徳2年「人物」参照)を出産しました。大五郎・お須免の方親子に桂昌院や柳沢吉保、正室天英院が付き、鍋松・月光院親子には間部詮房が付いて次期将軍位争いをしたという噂もありますが、そのような噂はいつの世にも囁かれるものです。大五郎は3歳で急逝しましたが(宝永7年「祐天上人」参照)、その死因に月光院派の毒殺説まで囁かれたのです。その8か月後、お須免の方は再び男子虎吉を産みました。ところが虎吉はわずか2か月で病死してしまい、天徳寺に葬られました。結局、世嗣は月光院の産んだ鍋松に決まったのでした。
正徳2年(1712)家宣が薨去すると、鍋松は家継を名乗って7代将軍となりました。月光院は正徳3年(1713)従三位に叙せられ、のち吹上御殿に住みます。間部詮房を相談役として政治の世界に影響力を持ち続けました。その様子を見て月光院と間部の関係を淫らなもののように言う人物も現れました。これはとても信じがたい風聞ですが、月光院付きの老女だった絵島(正徳4年「人物」参照)がたかが芝居見物を取り上げられて罪に落とされたことでもわかるように、権力の世界にはいつの世にも落とし穴が潜んでいるということでしょうか。
月光院は正徳3年、祐天上人は所持されていた阿弥陀如来倚像〔1尺6寸(約53センチメートル)〕を乞い受けて病弱な家継の守護本尊としました。これは源信(恵心)の彫った霊像と言われます。
しかし月光院の栄華の時代も幕切れを迎えます。さまざまな心遣いにもかかわらず家継は享保元年(1716)4月、風邪がもとで薨去してしまいました。月光院に残された道は仏にすがることのみでした。
家宣の影響を受け、深く祐天上人に帰依していた月光院は家宣薨去後の正徳2年(1712)に祐天上人に剃度の式を受けていましたが(正徳2年「祐天上人」参照)、家継薨去後の享保6年(1721)には祐海を導師として落飾しました(享保6年「祐天寺」参照)。「善久院」の号を「祐天寺」と改める許可を幕府から得る際に祐海が頼ったのも月光院です(享保7年「祐天寺」参照)。また、千部法要が中止させられそうになったときに救ったのも月光院でした(享保9年「祐天寺」参照)。そのほか家宣遺品となった貴重な宝物である『法然上人行状絵図』を寄進される(享保6年「祐天寺」参照)など、草創期の祐天寺は月光院からさまざまな恩顧をこうむったのでした。
宝暦2年に月光院が逝去したとき、祐海は老齢の身を特に運んで増上寺に行き、長年の恩顧を謝し、浄土往生を祈ったのでした(宝暦2年「祐天寺」参照)。