明顕山 祐天寺

年表

享保04年(1719年)

祐天寺

松姫、祐天上人像を寄進

享保3年(1718)から仏師竹崎石見が彫像していた祐天上人像(享保3年「祐天上人」参照)が正月12日にでき上がり、仮厨子に納められました。承秋門院よりたまわった袈裟、座具(正徳4年「祐天上人」参照)の模様を写し、しとねは天英院に対面された折に寄進された紺地金襴のものを模写しました。この像は本尊となる像なので祐海が造立するつもりでしたが、松姫(「人物」参照)が姥おかねを使者として懇望して施主となりました。正月15日、増上寺住職白随が竜土に来られ、開眼供養が行われました。その場には法類一同が集まり、法会を見守りました。この像は今も祐天寺本尊としてお寺を見守られています。

参考文献
『寺録撮要』1、『明顕山起立略記』

祐天寺善久院の連続寺号呼称の願い

2月8日に祐海は、寺社奉行月番酒井修理太夫に、善久院には寺号がないので祐天寺善久院と名付けたい旨を願い出ました。ところが、祐天という号は有名なので、全く新しい寺を建てるように聞こえるから許可できないということでした。いく度か文書をやり取りしたうえで、増上寺住職白随にも相談しました。白随もほかの寺号にしたらどうかという意見でしたので、直接方丈へ行き相談しました。意見交換の中で役者から明顕寺という案も出ましたが、未決着のまま帰りました。祐海は再度酒井方へ伺候し、「自分は俗世間では祐天上人の甥と生まれ、法においては弟子であり、その重恩を果たしたい。上人の遺跡建立で一番大事なのは寺号なのであるから、ぜひご憐憫をもってご許可くだされたい」と痛切な思いを込めて訴えました。酒井修理太夫はもっともなことであると願書を預かりました。2月10日、祐海は酒井方へ召され、公方さま(吉宗)に願いが許可されたことが老中井上河内守より告げられました。もう夜でしたがその日のうちと翌日に、祐海は諸処へお礼回りしました。

参考文献
『明顕山起立略記』

祐天上人像、供養

2月15日、祐天上人像の供養が、導師に増上寺白随を迎えて行われました。

参考文献
『実録』附

祐天上人像、晋山

庫裡が落成し(上棟は正月29日)、2月17日、快晴の空のもと祐天上人像と舎利、舌根が竜土町禅室から祐海に付き添われて祐天寺善久院に晋山しました。晋山の行列には、増上寺白随の名代として役者円龍と安養院悟水が加わり、そのほか月行事、塔頭30房も行列に並んで祐天寺善久院に入来し、祐天上人遺跡が造られたことを祝いました。路次の警護として高松中将殿家臣である小笠原喜之丞組20人が行列に供奉し、道俗もおびただしく道に出て、行列を見守りました。

参考文献
『実録下書』附、『明顕山起立略記』、「祐天上人真像晋山」(伊藤丈、『THE祐天寺』34号、1995年7月)

熊野権現社、上棟

2月17日、鎮守宮である熊野権現社が上棟されました。当初の場所はわかりませんが、堂社が整ってからの絵図には境内の西側に描かれています。

参考文献
『寺録撮要』2

月光院の見舞い

3月10日、月光院より保養にと、祐天寺に朝鮮人参が届けられました。祐天寺建立のため多忙な祐海の健康を気遣ってのことでしょう。また、その後には同じく月光院から本堂へ赤地金襴紋付きの幢幡も寄進されました。

参考文献
『寺録撮要』1

天英院より賜物

4月18日、天英院より、文昭院殿(家宣)ご装束5枚を本堂の荘厳(飾り)のためにとくださいました。

参考文献
『寺録撮要』1

千部供養の準備

5月28日、祐海は寺社奉行月番松平対馬守へ千部修行の願いを出しました。期間は7月16日より25日の予定です。この願いは6月18日、酒井修理太夫内寄合の席で許可されました。6月25日、千部期間中本堂へ苫葺き屋根を張り出して良いかと松平対馬守に内意を尋ねたところ手際良くとのことゆえ、張り出しの奉加場(財物を寄進する仮設の場所)と水茶屋を設けました。7月5日、天英院と竹姫から拝領した御紋付き戸帳などの品々を祐天上人像を飾るために用いて良いかどうか、松平対馬守に参上して伺い、許可を取りました。

参考文献
『寺録撮要』3・5

本堂上棟

2月22日に本堂の地鎮祭、3月5日に釿初めが行われました。大工の棟梁は奥田甚兵衛です。同月6日に地形取りに取り掛かりました。黒土を取り去り、赤土と砂利を均等に混ぜて地面に敷き、それを突き固めるのです。人足およそ1、500人が動員されました。村や町から幟を立てて参詣した人々に土を踏ませたのです。5月19日、本堂柱石を据えました。柱石には祐天上人が生前名号を書かれた石を用いました。その石の下に、祐海が名号を書いた玉石を敷き詰め、また本堂内陣下の地形土には祐天上人遷化の土地である竜土町の禅室居間下の土を敷いたのです。5月21日に深川より材木が到着し、6月3日、ついに上棟式が行われました。棟梁と大工10人余りが大紋を着て揃い、大竹で昇り道を造り、地上6尺(約20メートル)上がったところに弓矢を飾り、洗米を供えました。この式での供え餅は儀式終了後、天英院、月光院、法心院、蓮浄院、松姫、竹姫ほかへ届けられました。

参考文献
『寺録撮要』1、「本堂新建造立」(伊藤丈、『THE祐天寺』35号、1995年10月)

信哲、剃髪

6月23日、のちに経蔵の施主となる信哲が剃髪しました。

参考文献
『寺録撮要』2

祐海、千部来由などの文を書く

祐海は7月、同月16日から始まる千部法要が祐天上人の遺志に基づくものであることなどを述べた、千部成就の祈願の誦文を記しました。

参考文献
『明顕山起立略記』、『寺録撮要』3

本堂入仏式

7月、本堂(造堂当時は幕府をはばかって念仏堂と言った)が落成しました。6間(約15メートル)に7間(約17.5メートル)の大きさです。居休屋(5間に6間)が付属しています。中央に祐天上人像を安置し、舌根をその前に安置しました。本堂内の仏具等は、月光院のほかに法心院、蓮浄院より寄進がありました。7月15日、本堂入仏式が行われました。

参考文献
『寺録撮要』3、『明顕山起立略記』

祐天上人1周忌の千部供養

7月16日より26日まで(本当は25日までの予定でしたが、駒が原に将軍の御成があったため、1日延期したのです)祐天上人1周忌の仏事が執り行われました。浄土三部経(『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』)千部が読誦されました。これがその後も長く続いた千部読経の始めです。千部の期間に祐天寺に参詣した人々は数え切れないほどで、堂の内外ともに参詣者で埋め尽くされたのでした。7月27日、松平対馬守へ千部修行の満了を届け出ました。

参考文献
『寺録撮要』3、『明顕山起立略記』、『実録』附

百萬遍講

8月、神田の太田長右衛門が発起人となって百萬遍講を始めました。1人毎月100銭の掛銭を3年間貯め、1人分3分(約4万5、000円)とし、毎年4月15日に百萬遍念仏を興行することとなりました。

参考文献
『寺録撮要』4、『明顕山起立略記』

竹姫、祐天上人宮殿を寄進

4月21日、竹姫より祐天上人宮殿(厨子)を寄進したい旨が、姥のおかねを通じて伝えられました。10月7日にでき上がり、11日(『明顕山起立略記』では15日)に宮殿の供養が行われました。宮殿制作の棟梁は本堂と同じ奥田甚兵衛です。供養の導師は増上寺住職白随が勤めました。

参考文献
『寺録撮要』1、『実録』附、『明顕山起立略記』

永式三箇条

10月15日、増上寺より永式三箇条が下されました。およそ次のような内容です。
一、祐天上人の遺志を継いで祐海は善久院を再建し、寺号を明顕山祐天寺善久院
とする。
二、敷地はおよそ1万坪(3.3万平方メートル)である。これは祐天上人の余
功によるものなので、弟子の中から住職を選び相続すべきである。
三、廟所の遺跡であるから、祐天上人の像を中央とすべきである。今後は増上寺
末寺の式に従ってもらうが、その起こりが格別なので年礼には出仕してもら
うが開山忌などには出なくて良い。

参考文献
『明顕山起立略記』

説明

尾張家と祐天上人

諸大名家のうち、祐天寺とかかわりのある家は多いのですが、御三家の1位尾張徳川家もその1つです。記録からわかっている事柄のみ記しておきましょう。

尾張徳川綱誠の娘松姫(「人物」参照)は、将軍綱吉の養女となりました。祐天上人に深く帰依し、祐天寺にさまざまな寄進をしたのは他項に述べたとおりです。
また、徳川宗春(元文4年「人物」参照)側室の民部方(螢光院。補誦姫、八百姫、竜千代の母)が祐天上人に信仰を寄せていたようで、宝暦7年(1757)の逝去の折には祐天寺に埋葬されています(『徳川家諸家系譜』2、宝暦7年「祐天寺」参照)。この方の父君〔家中山中清兵衛。儀光院。享保20年(1735)寂〕と、母堂〔一心院。寛保2年(1742)寂〕も祐天寺に位牌が納められています。

宗睦側室で内藤政脩実母の仙宥院の法号も『本堂過去霊名簿』にあります。仙宥院は寛政12年(1800)寂です。
その子である宗陸7男の延岡内藤右京亮政脩〔尚徳院。文化12年(1815)寂〕の法名も見えます。その他の御殿女中(なかでも梅沢は古旦那とあります)、家中の侍の名も見えます。文化14年(1817)に祐天上人廟所裏に建てられた百回忌遠忌塔(文化14年「祐天寺」参照)には209名の寄進者の名が刻まれていますが、その中に町人に混じって尾州御屋敷、そのほか尾州の女中の名が見えます。

時代が下って幕末に、尾張中納言であった天総院〔嘉永2年(1849)逝去〕の法号も記録に残されています。

参考文献
『徳川諸家系譜』2、『本堂過去霊簿』、「祐天上人百回遠忌塔―第1墓地―」(中島正伍、『THE祐天寺』17号、1991年3月)

伝説

剣難を逃れる

8月29日、小伝馬町3丁目糠屋重兵衛の家に逗留していた上州(群馬県)藤枝の与平治は、祐天上人の名号のおかげで剣難を逃れることができました。このように、祐天上人遷化ののちも名号の威徳は現れ続けていたのです。

参考文献
『利益記』下

寺院

所化僧などに「学問衣服掟三ヶ条」

10月、増上寺録所は所化僧や役者に3か条の掟を出しました。法にのっとって勤行をなし、学業に専念して講釈や法問を怠らないことや、不行跡があった場合は、たとえその者に学才があったとしても、当人のみならず庵主や谷頭にもその罪は及ぶこととし、法衣や内衣は分相応なものを着用すること、などの内容です。

参考文献
「山門通規」(『増上寺史料集』3)、『浄土宗大年表』

芸能

『平家女護島』初演

8月、大坂竹本座で人形浄瑠璃『平家女護島』が初演されました。『平家物語』の世界を扱った作品で、2段目の鬼界が島の段が特に有名です。鬼界が島の流人のうち、俊寛は平清盛に特に憎まれたため、ほかの2人が赦免されても1人で島に残されました。俊寛の内面の苦悩と自己犠牲的な行動が、この作品を今でも名作の誉れ高くしています。

参考文献
『歌舞伎事典』
TOP