明顕山 祐天寺

年表

享保03年(1718年)

祐天上人

白矢八幡

元旦、祐海は増上寺塔下で1本の白箭を拾いました。祐海は天和2年(1682)戌年の生まれで、享保3年戌年にこの矢を得たので、同夜戌の刻(午後8時頃)に矢を祝い、「白矢八幡」と名付けました(享保5年「祐天寺」参照)。

参考文献
「白矢八幡大菩薩勧請の訳書」(『寺録撮要』2)

歯骨舎利

正月17日、祐天上人の歯が抜けました。弟子の香残は信心のためにいただくと、上人入寂ののちの延享4年(1747)、上人舎利の一部を納めた舎利塔にその歯を移し、諸人に拝させました(延享4年「祐天寺」参照)。

参考文献
『寺録撮要』3

将軍吉宗と対面

4月23日から有章院殿(家継)の3回忌の法要が増上寺で行われました。晦日、祐天上人は有章院殿廟に参拝された8代将軍吉宗に初めて対面しました。法要のあと、増上寺白随には銀1、000枚、門秀と祐天上人にはそれぞれ100枚が下賜されました。吉宗は特別に祐天上人を増上寺別殿に招いて対面し、その折には上人をいたわってしとねを許しました。

参考文献
『略記』、『実録』正、『縁山志』10(『浄土宗全書』19)、『徳川実紀』8

「地蔵尊日課勤行記」

5月、祐天上人は水野出羽守忠周(「伝説」参照)のために、日課勤行で称える内容を記した「地蔵尊日課勤行記」を書かれ、加判しました。

参考文献
『寺録撮要』2

水野忠周の申し出

5月28日、水野忠周は先祖忠清の代に浄土宗に改宗していることと、菩提寺華岳山宝松院春了寺を建立したこと、子々孫々まで改宗を禁じ祐天上人の法系の僧侶の弟子となることを命じた文章を認めました。これをのちに書き写して祐海、檀的宛てに差し出しました。

参考文献
『寺録撮要』2

祐天上人、不食

6月中旬、祐天上人は食が進まれず気力が弱ってきました。身体は日々にやせ衰えていきましたが、平素と変わらず弟子と談笑し称名し、うむことなく1日も休まずに名号を書写されました。弟子たちには、「私の生縁はほとんど尽きた。西帰(寂して阿弥陀仏の西方浄土に行くこと)の日も近い」と言われました。

参考文献
『略記』、『実録』正

不断念仏の開闢

7月15日の正午頃、祐天上人は弟子たちに「私の没後は1つの寺を建て、その寺を長く念仏の道場にして欲しい」と慇懃に遺命しました。それから、自ら鉦を鳴らして念仏を発願開闢しました。これが祐天寺で長く修されることとなる不断念仏の初めとなりました。

参考文献
『略記』

遷化

夜に至り、祐天上人は臨終のときが来たと告げると、身体を浄め、恵心(源信)作の阿弥陀如来像と恵心筆の阿弥陀画像(京の中川氏寄付のもの)に向かって、左手に念珠を取り右手に阿弥陀経を握り、名号を称えました。弟子たちは師を取り囲んで念仏を称えました。時が移り、称名の声とともに祐天上人は禅定に入られ、閑かに遷化されたのでした。7月15日夜半のことでした。異香が室内に満ち、皆は奇異の思いをしました。この夜は晴れて風がさわやかな夜でした。天は高く月は皓々と輝いていました。信者の中には霊異を感じて祐天上人の遷化を知り来集する者も多くいました。

参考文献
『略記』、『実録』正・附

祐天上人像、制作

7月15日、仏師竹崎石見は祐天上人遷化ののちその姿を写し、祐天上人像制作に取り掛かりました。ご容貌を造り替えること10余回、まさに上人に生き写しの像ができ上がり、翌年開眼供養の運びとなるのです(享保4年「祐天寺」参照)。

参考文献
『寺録撮要』1

了月、祐天上人の姿を描く

7月16日、増上寺了月(享保元年「祐天上人」参照)が祐天上人の姿を写しました。

参考文献
『寺録撮要』1

人々の礼拝

遷化の翌16日、上人の遺骸を椅子に乗せ弟子たちは皆礼拝しました。上人の面差しは厳かでわずかに微笑まれているようで、生きておられるときそのままのお姿でした。詰め掛けた信者も皆礼拝したのでした。

参考文献
『略記』、『実録』完

葬送、荼毘

7月17日、上人の遺骸は棺に納められ、葬儀が行われました。江戸府内の檀林寺院および増上寺の12人の上役、30の塔頭(小院)、8人の守廟の別当が皆集まって法要を行いました。増上寺住職白随が導師を勤め、集まった同族が棺を取り囲んで同音に念仏を称えました。棺を運んでいく先々では人が群集して立錐の余地もありませんでした。
荼毘の地は上大崎村の増上寺下屋敷、ここに子院7か寺とその南方に火葬地がありました。
ついに荼毘の火が点けられたとき群衆の間にどよめきが起こり、悲痛慟哭の声が天地を動かすほど起こりました。祐天上人がいかに人々の心をつかんでいたかを示す出来事でした。荼毘の煙は、あるいは紫雲となってたなびき、あるいは真っ直ぐ天に昇り、またあるいは天蓋のように荼毘の場所を覆うのでした。木の枝や草の葉についた灰は凝結して舎利と変じました。人々のうちある者は金蓮を見、金光を見、また阿弥陀三尊が葬火の上に並んでおられるのを拝したのでした。
火を消してのち、舎利を得ました。また、舌根が焼けずに残りました。その舌根は白色で光を持ち、蓮弁のような形をしていました。祐天上人は多年称名の功を積み、一生妄語(嘘を言うこと)を慎んだ方であり、その徳によってこのような霊験が起きたのであろうと人々は言い合いました。

参考文献
『実録』完、『縁山志』10、『新編武蔵風土記稿』3(蘆田伊人校訂、根本誠二補訂、大日本地誌体系9、雄山閣、1996年)

祐海、遺跡起立の願

祐海は、病中の祐天上人に、上人の遺跡を残したい旨を申し上げました。祐天上人は何事も祐海に任せると言われました。
7月初旬、増上寺役者安養院に目黒辺りの払い屋敷を買い取って二本榎永信寺の号を受け継ぎ、これを引き移して祐天上人の廟を建立して遺跡としたい旨を申し出ました。安養院は寺社奉行土井伊予守に問い合わせ、目黒は御鷹場なので難しいと返答してきました。祐海は天英院、月光院も深く信仰を寄せた祐天上人の廟所であることを説き、19日に再度願いを増上寺に提出し許可を得たので、これを寺社奉行にも申し出ました。
7月21日、祐天上人の初七日であるので、祐海は増上寺方丈に行き、祐天上人の金襴七条袈裟、扇、黄金1枚、白銀10枚を住職に差し上げました。また、上人直筆の名号を表具して、白銀2枚とともに役者4人へ差し上げました。そのあと方丈で50人ほどで初七日の法要を行いました。出席者は善導寺鑑歴、西応寺寂天、宝松院雲洞、真乗院億道、そのほか檀的(祐天寺准3世・元文元年「祐天寺」参照)、宗順(宝暦9年「祐天寺」参照)、祐円、祐的、祐林(宝暦元年「祐天寺」参照)、光堪、鳳巌、伊勢清雲院祐意、浅草新光明寺隆円、三田大信寺通外、白金正源寺林外、下屋敷本願寺円外、森田次郎兵衛、翁屋七兵衛、加藤善次郎、矢向良忠寺隠居、越谷天岳寺桜室、鵜木光明寺利億、駒込正行寺学冏、下屋敷清岸寺柳泉(享保元年「祐天寺」参照)、浅草正覚寺念哲、矢向良忠寺南随、三田春林寺、芝法音寺岳潭、小石川法蔵院貞運などです。
廟所の起立について何の連絡もないので、8月5日に祐海は本丸老女の常磐井らへ願いの手紙を出しました。8月17日、「来月は自分が月番なので、来月に願書を出すように」と寺社奉行土井伊予守より指示があり、9月2日に祐海は新寺願いを出しました。ところがこれも12日に差し戻されてしまったのです。
新寺建立は例がなく無理であるということなので、10月5日、祐海は改めて引寺(今まである寺を引き継ぐ)の願いを出しましたが、その間、祐海と本丸老女たちの間にはいく度も手紙がやり取りされ、その連絡役は祐天上人の信者であるかねが受け持ったのでした。
10月10日、増上寺で行われた文昭院殿(家宣)7回忌の法要に祐海が出席した折、善久院古跡400坪、うち家坪42坪を受け継ぐよう言われました。
同月28日、伊予守宅へ召され、現在の状況では寺院の面積を増やすなどということは、減らせとのお触れに触れるので難しいとのことでした。そこで今度は、善久院に祐天上人の廟所を造り常念仏を行いたいという書付を老中井上河内守へ差し上げたところ、河内守は許可して書付をくださいました。ただしそれによると、善久院を別の場所に移すことは許可しないということだったのです。祐海は思案し、お請けを出すのが遅れました。ところが閏10月14日、増上寺役者が呼ばれ、安養院悟水が伊予守へ出向いたところ、伊予守は「まだ寺地については決まらないようだが、住職が誰かも聞いていない。これほど重大な事柄は祐海でなくては成就しないだろう」との仰せで、新寺の住職は後日、祐海に決まりました。祐海も天命であると覚悟を決めて引き受けることにしたのです。同月17日、書付どおり善久院に廟所を建て、念仏堂を建立したいという願いを出しました。
閏10月23日、善久院隠居との話し合いが済み、利億、檀的をはじめ祐海の弟子の祐円、祐益、そのほかの僧侶たち、増上寺役者安養院悟水、帳場義潭、中目黒・下目黒の名主年寄、寺渡しの役として善久院が属する増上寺塔頭の月界院、善久院の隠居覚随が来て、双方立ち会いのうえで受け取りが行われました。善久が開起した古境内の年貢地400坪、および善久夫婦の位牌と免田畑13石を受け取りました。本尊仏具と仏殿、房舎を併せて42坪半の建坪の建物は隠居覚随の相続料となり、いくばくかの金子を加えました。月界院にも修理料100両を贈りました。

参考文献
『寺録撮要』1・2、『明顕山起立略記』、「祐天上人の初七日追善供養」(伊藤丈、『祐天ファミリー』17号、1998年6月)

松坂西方寺千躰地蔵、安置

8月、松坂の信者森田直往(享保10年「説明」参照)は、菩提寺である松坂西方寺に堂を建て、千躰地蔵を安置しました。直往は江戸へ出て成功した商人で、祐天上人の牛島時代からの信者です。
堂中央には3尺(約1メートル)の地蔵菩薩立像があり、胎内には祐天上人の木札の名号が納められています。最初の千躰地蔵は金仏でしたが、江戸から舟で運ぶ途中に遠州灘で難破し、沈んでしまいました。そこで今度は木仏を千躰作り、堂に安置したそうです。

参考文献
「清水西方寺と祐天上人」(玉山成元、『祐天ファミリー』8号、1996年9月)

祐海、森田直往に手紙を出す

9月8日、祐海は森田直往に手紙を出しました。それによると、祐天上人の遷化を聞いた直往はお悔みの手紙と香典を届けました。祐海はそれを位牌前に供えたことを記し、祐天上人の着物で仕立てた小五条の袈裟(威儀細)と、日頃持っておられた数珠、名号を差し上げたいということでした。この袈裟は直往の菩提寺、松坂西方寺に今も伝わっています。

参考文献
「祐天上人の礼状と袈裟」(玉山成元、『祐天ファミリー』6号、1996年4月)

遺骨の分骨

閏10月15日、月忌にあたり、西応寺寂天、宝松院雲洞、真乗院億道ら法類と、増上寺円龍が一所に会しました。その折に寂天が、祐天上人の舎利と舌根を受け取って増上寺に納めるようにと言い出しましたが、祐海は、一部は増上寺に納めるものの、残りは今度起立する善久院に納めることにしました。
増上寺の歴代住職廟所聖衆庵は、安永3年(1774)安蓮社豊誉大僧正により不断念仏道場とされた縁で、以来安蓮社と呼ばれています。

参考文献
『寺録撮要』1、『縁山志』4(『浄土宗全書』19)、「祐天上人遺骨、増上寺へ分骨」(伊藤丈、『祐天ファミリー』22号、1999年6月)

水野出羽守忠周、寂

前述の信者、信州松本城主の水野出羽守忠周は10月28日、江戸屋敷で逝去しました(享年、46歳)。忠周はすでに幡雄から布薩円頓両戒を受けていましたが、祐天上人からもう一度拝受し直したいと申し出、さらに阿号まで受けた篤信の者です。法号は智徳院殿本蓮社清誉浄祐光阿大居士です。
墓は伝通院塔頭の真珠院と松本玄向寺にあり、玄向寺の墓石の裏には名号が彫られています。

参考文献
『寺録撮要』2、『本堂過去霊名簿』、『松本市史』2(松本市編、松本市、1995年)

祐海、善久院住職に

閏10月28日、祐海は土井伊予守に召され、増上寺塔頭の安養院悟水と役宅に参上しました。すると吉宗の内許が伊予守から仰せ渡され、祐海は善久院住職となり、廟所と念仏堂(本堂)の建立も許可されました。祐海は老中と月番の寺社奉行、その同役などの方々にお礼回りに伺いました。これが祐天寺の起立となります。

参考文献
『縁山志』10、『明顕山起立略記』、『開山大僧正祐天尊者行状・中興開創祐海大和尚略伝』

竜土の建坪移築の許可

11月5日、祐海は土井伊予守に召され、願いのとおり善久院は取り崩し、竜土の建坪206坪のうち少し減じて引き移すことを許可されました。祐天上人の遺跡を建立したいという祐海の思いはついに成就したのです。幕府に許可を申請したときの苦労を祐海は『明顕山起立略記』の中に、「此の間の儀、容易に非ず。公邉に数回とは只その要を記するのみ。また寸善尺魔無益の労煩後世之を思へ」と書きつづっています。

参考文献
『明顕山起立略記』

随身稲荷を勧請

11月、随身稲荷を勧請しました。祐天上人が出家を決意されたときに3度鳴き(生まれたときに鳴いたという説もある)、生実大巌寺、飯沼弘経寺、小石川伝通院、増上寺と転住するたびに舎を巡って3声鳴いたと言われる白狐を祀ったものです。

参考文献
『寺録撮要』2、『明顕山起立略記』、『縁山志』10

伊豆弥陀の岩屋前に祐天名号石塔、建立

この年、伊豆弥陀の岩屋(静岡県南伊豆町)前に祐天名号の石塔が建立されました。石塔に刻まれた願主は「洛陽(京)某」となっており、参詣の人々が日課百遍の念仏を称える十萬人講に入ることを願って建立した旨が記されています。
弥陀の岩屋(阿弥陀窟、手石洞、宝鏡窟)は潮が満ちると入ることはできず、潮が引いたときだけ入ることのできる洞窟です。光線の加減によって阿弥陀三尊像が見えるとされ、寛永年間の初め(1624年頃)漁師によって発見されたとも、正徳年間(1711~1715)甲斐国の僧道入によって見つけられたとも言います。それ以来多くの参拝者が訪れました。

参考文献
南伊豆町阿弥陀窟前祐天名号石塔、『寶鏡窟記』(白隠禅師)、『江戸時代の伊豆紀行文集』(中田祝夫編、伊豆半島郷土史研究会発行、長倉書店、1988年)

伝説

祐天上人、霊夢を見る

7月14日、祐天上人は霊夢を見ました。大層麗しいお顔の観世音菩薩が枕元に坐っているのです。上人が目を開けて見ると、その観音のお腹は非常に膨らんでおり、上人は不思議に思いました。観音は弥陀の名号を口授してくださり、上人はそれを受けるごとに醍醐(「解説」参照)の素晴らしい味を味わうような思いをしました。気が付いてみると観音のお腹は小さくなり、祐天上人のお腹は膨らんでいたのでした。
目が覚めた祐天上人のお顔は喜悦の表情に満ちていました。

参考文献
『実録』正附

奇瑞

祐天上人遷化のとき、多くの者が奇瑞を拝しました。その夜、中川常有は京において東方に異光を見ました。後日調べると、それはまさに上人遷化のときだったのです。また、下野妙義山(群馬県)辺りの村民も奇瑞を見て祐天上人の遷化を知り、村中の人々が集まって念仏を行ったのでした。

参考文献
『実録』附

水野忠周の夢に祐天上人現れる

8月21日、水野出羽守忠周の夢に祐天上人が現れ、忠周とゆるゆる物語をなさいました。それによると、「祐天上人の本地は地蔵菩薩である。地蔵菩薩の回向の方法を授けよう」と言われました。忠周は授けられた回向の方法を書付にし、8月24日付けの手紙で祐海に知らせました。

参考文献
『寺録撮要』2

松本に地蔵尊、出現

水野忠周は霊夢を見たので、80年間ほど本尊が失せ、空き堂になっていた松本の某寺の地蔵堂に代参を使わしました。すると、不思議なことに恵心(源信)作の古仏の地蔵菩薩が7月15日から戻られているということがわかったのです。9月晦日、忠周は館林善導寺鑑歴へ手紙を出しました。忠周はその手紙の中で、自分が往生するまでの間、この地蔵菩薩を本尊にして毎日回向し、往生ののちその某寺に帰そうと思うと述べています。この地蔵菩薩像はやがて祐天上人本地身地蔵菩薩像として祐天寺に迎えられ、境内地蔵堂に祀られることとなります(寛政9年「祐天寺」参照)。
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参考文献
『寺録撮要』2

地蔵尊としての出現

この頃、いく人もの人が不思議な夢を見ました。浅草の禅僧(玉相寺の隠子某)、深川本誓寺の住職白呑、祐海らの夢に、水野忠周の夢と同じように祐天上人が現れたのです。また、ある人の臨終のときに祐天上人が地蔵菩薩の形で厳かに来臨なさったなど、多くの話が伝えられています。

参考文献
『実録』附

深川本誓寺、乗り移りの地蔵尊

深川本誓寺は正徳2年(1712)に本堂方丈すべてを焼失しましたが、住職白呑は苦心の末ようやく再建しました。ところが享保3年またも類焼してしまったのです。白呑は隠退して良い後住を探そうと、祐天上人の庵室を訪ねました。祐天上人は自分に考えがあるからと白呑の隠退を引き止めました。
同年7月14日、上人は白呑を招くと「私はもうすぐ命終するので、蓮台の上から尽力する」と言い、形見として名号1幅を贈りました。
翌日祐天上人が遷化すると、急に本誓寺延命地蔵菩薩を信仰する者が増え、翌々16日からは参詣者のため夜も門を閉じることができないほどでした。
次の年、享保4年(1719)には堂宇を立派に再興することができ、本誓寺地蔵尊は「祐天上人乗り移りの地蔵尊」と呼ばれるようになりました。祐天上人が形見に贈った名号は、のちに地蔵堂前に建てられた石の観世音菩薩の背中に刻まれ(左文字の名号)、人々はそれを刷ったものを大事に守り本尊としたのでした。

参考文献
『文政府内寺社書上』(宇高良哲編、大東出版社、1979年)、「祐天上人のりうつりの地蔵尊」(中島正伍、『THE祐天寺』9号、1989年3月)、『武江年表』1

寺院

了鑑、知恩院住職に

伝通院住職の了鑑が、8月に知恩院第46世住職となりました。9月に入院し、享保12年(1727)には大僧正に任ぜられました。

参考文献
『知恩院史』(藪内彦瑞編、知恩院、1937年)

出版

『独言』

俳諧論書。享保3年刊行。上島鬼貫(享保18年「人物」参照)著。上下巻に分かれ、上巻は「まこと」を中心とした論書で、「まことの外に俳諧なし」と説かれています。下巻には四季・旅・恋・祝の項目があり、「門出したらん日、行く人・とどまる人ともに打ちいさぬれど」のように雅文体で書かれています。伝統的な題材にとらわれずに読むことを俳諧の「まこと」と言っており、全編に鬼貫の「まこと」の精神が説かれています。


「外郎売」初演

「外郎売」は歌舞伎十八番の1つです。この年の正月、江戸森田座の『若緑勢曽我』で2代目市川団十郎が「外郎売」を初演しました。小田原名物の薬を売る「言い立て」の鮮やかな台詞回しが人気を得ました。

参考文献
『鬼貫の独言』(復本一郎、講談社学術文庫、1981年)、『歌舞伎事典』
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