明顕山 祐天寺

年表

享保02年(1717年)

祐天上人

芝西応寺へ移転

増上寺住職詮察が隠居(「寺院」参照)したため、一本松の隠室を明け渡す必要が生じました。そこで2月15日、祐天上人は芝西応寺へ移りました。西応寺住職は上人弟子の寂天でした。

参考文献
『縁山志』10(『浄土宗全書』19)

麻布竜土に移転

6月18日、祐天上人はさらに麻布竜土に新たに禅室を構え、移りました。境内は1、254坪(4、138平方メートル)、建坪は206坪半(681平方メートル)です。上人はここで遷化までの2年間、弟子たちに囲まれて念仏修行をされながら晩年を過ごされました。

参考文献
『縁山志』10、『明顕山起立略記』、『開山大僧正祐天尊者行状・中興開創祐海大和尚略伝』

蓮糸袈裟の書付を依頼

祐海はこの年参詣に来た田安家老女の浜野に、蓮糸袈裟(正徳5年「祐天上人」参照)の書付を依頼しました。書付は翌年、祐天寺に届けられます。

参考文献
『寺録撮要』3

伝説

疱瘡神に血脈を授ける

あるとき1人の老女が麻布の隠室にやってきて、十念を受け、血脈を授かりたいと願いました。祐天上人は「お前は世の普通の人には見えないが、どのような者で血脈を得たいと思うのか」とお尋ねになりました。老女は「私は疱瘡神です。冥界の苦患は言葉には尽くせません。祐天さまの教化を受けてその苦を免れたいと思ってまいりました」と答えました。祐天上人は「世間には疱瘡で早世する子供が多い。お前は多くの疫神を制御してみだりに幼い者の命を奪うことのないようにしなさい」と言われました。老女は「祐天さまのおかげで苦患を逃れることができれば、私の名を貼り付けた家には他の疫神は入らないようにさせましょう。疱瘡で非業の死はないようにいたします」と誓約したので、祐天上人は松誉貞寿の名を与え、十念をお授けになりました。疱瘡神はありがたく受けて去っていきました。

参考文献
『利益記』下

寺院

護持院ヶ原の誕生

正月22日に小石川馬場脇の武家屋敷から出火し、湯島の辺りから神田門内、鍛冶橋までの大名屋敷などが焼き尽くされ、神田御門の近くにあった護持院もことごとく焼失してしまいました。将軍綱吉と生母桂昌院の帰依の篤かった護持院ですが、幕府は財政引締めによりこれを再建せず、護国寺の本坊を護持院とします。護持院があった場所は延焼を食い止めるための火除地(空地)として庶民に開放され、護持院ヶ原(弘化3年「事件・風俗」参照)と呼ばれて防火とともに子供たちの遊び場としての役割も担いました。


白随、増上寺住職に

2月、黄疸の病で辞職した詮察に代わって、鎌倉光明寺の住職であった白随が増上寺住職となりました。白随住持の代には有章院殿(家継)霊屋の上棟があり、白随は有章院殿御影開眼供養などの法会の大導師を勤めています。

参考文献
『大本山増上寺史』(村上博了、専修寺、1989年)、『江戸学事典』、『武江年表』1、『江戸編年事典』

出版

『世間娘気質』

浮世草子。気質物(正徳5年「解説」参照)。外題に『世間娘容気』とあります。江島其磧(享保8年「人物」参照)著。享保2年刊行。
当時の娘たちの行動を描いた短編集。箱入り娘が嫁入り後も乳母の乳を飲み、おまるを持参し、「ねんねこねんねこ」とたたいて寝かされる話(巻1の1)や、姉の婿が急死したので入り婿を迎えたが発心し出家してしまい、呉服屋に嫁入りする予定の妹は密通がばれてしまったので破談となり、その男と結婚の用意をすると今度は相手が断ってきたという話(巻3の3)や、27回も嫁入りした女性が養育費などを受けて子供27人を育てた話(巻5の1)などがあります。人間の描写に滑稽味があり、読者の笑いをねらった物語です。

参考文献
『歌舞伎事典』、『西鶴以後の浮世草子』(市川通雄、笠間書院、1983年)、『日本古典文学大辞典』

芸能

河東節の始まり

初代十寸見河東が半太夫節から独立して独自の浄瑠璃を始めます。肥前節、半太夫節とともに江戸節と言われて流行しました。現在ではほかの2種は滅びて河東節だけが残ってはいますが、歌舞伎十八番の『助六由縁江戸桜』の中で河東節連中により演奏されるだけとなりました。

参考文献
『歌舞伎事典』、『西鶴以後の浮世草子』(市川通雄、笠間書院、1983年)、『日本古典文学大辞典』
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