鎌倉大仏高徳院(元禄16年「祐天上人」参照)では正徳2年(1712)以来不断念仏が行われていました(正徳2年「祐天上人」参照)。この年さらに鎌倉光明寺白随の世話で祐天上人と光寿院(松平伊賀守忠周室)はそれぞれ500両を寄進(高徳院境内石塔より)しました。
増上寺了月(享保3年「祐天上人」参照・のちに浅草行安寺に住す)に頼んで祐天上人80歳の姿を画に描いてもらいました。胸には上人直筆の名号を書き入れ、自身で開眼しました。
森田市左衛門は江戸本船町に住んでおり、熱心な信者の1人でした(享保10年「説明」参照)。この頃は一本松に住んでいた祐天上人に、自分の本尊の開眼をしてもらうと、市左衛門は日本全国の霊地の土を集めに出発しました。帰ってくるのは5年後になります(享保9年「祐天上人」・享保10年「説明」参照)。
9月、品川清岸寺に祐天上人の名号を刻んだ結縁塔が建立されました。墓地に建つ結縁塔は土台から2メートル弱の高さで、正面に祐天上人の名号が彫られています。背面には中央に「当寺五世貫蓮社練誉上人遊国柳線(花押)」とあり、その左右に僧侶と在家の信者の名が30名余り刻まれています。その下段には建立の年号と月日が刻まれています。もとはこの塔の上にさらに1メートル余りの地蔵菩薩像(現在は無縁塚中央に安置)が乗っていたということです。
また、山門をくぐって下り坂の左側にある、樹齢200年から250年くらいの桜の老木は「祐天上人手植えの桜」と言われています。現在は品川区の指定天然記念物です。
清岸寺は麻布一本松の隠室から近い距離にあり、祐天上人が立ち寄ったとしても自然なところです。祐天上人の麻布での生活をかいま見るような風情をたたえた寺院です。
武州川崎領小田村の名主十兵衛の一子、伊之助は、2歳になってもものを言わず、また狂乱することがたび重なったので、下女を3人抱えて代わる代わる子守りをさせていました。医薬も祈祷も効果がないまま、7歳になりました。享保元年正月、十兵衛は矢向村良忠寺の住持順阿に、「このままでは人間界に生を受けた思い出もなく、かわいそうであるから」と、祐天大僧正の拝服名号を得ることを頼みました。順阿も不憫に思い、麻布の祐天上人の隠室に参り、名号を拝受してきました。十兵衛が伊之助に名号を呑ませると、生まれて7年間もものを言わなかった子が声を上げて念仏を称え、それから半月のうちに言葉を覚え、狂気もすっかり治まりました。父母はもちろん、このことを見聞きする者も賞嘆したということです。
2月、下総国葛西領小松村伊左衛門の娘は難病で医薬も効き目がなく、痛みに苦しんでいました。伊左衛門が祐天上人から拝受した名号を頂戴して、4歳という幼さながらも拝んでいたところ、数日来の病苦がやみ、念仏を称え眠るように息絶えました。野辺送りも済み、その名号を掛けて位牌を置き、伊左衛門ともう1人が念仏をしていたところ、手向けの水の中に光るものがありました。それは小豆大の舎利2顆でした。同年4月に伊左衛門は、その舎利を麻布隠室に持参して祐天上人にご覧に入れました。
2月、増上寺の貞雄という僧が悪瘡を患いました。療治をしても効果がありません。あまつさえ鼻梁の肉が腐り落ちて骨が現れ、見苦しくて人中にも出られなくなりました。貞雄は深く厭離の心を起こして断食し、捨身往生を覚悟しました。しかし、命は諦めても鼻の痛みに耐えきれず、祐天上人の名号を鼻に張って念仏したところ、痛みがたちどころにやみ、鼻は治ってしまいました。貞雄はありがたさに涙を流しながら祐天上人に事の次第を述べました。その夜、祐天上人の夢に師匠の檀通上人が現れ、貞雄の不求自得の利益は奇妙なことではない、地獄の業火に焼かれる罪人すら念仏で救われるのだと説かれました。
松平采女の家臣、松田次左衛門の妻は一途に日蓮宗を信仰しており、ほかの宗派、特に念仏を誹謗していました。この年5月の初めから狂気して夫に向かい「さあ殺せ、なぜ殺さない」などと、刀を抜いて叫んだりするようになりました。親族の岩崎覚兵衛が「これは普通の病ではない。私は祐天上人の名号を持っているから守りとしなさい」と言いました。次左衛門がその夜、熟睡している妻の枕元に名号を安置し、しばらく経って薬を与えようと起こすと、妻は「あっ」と言って首を上げ、「残念でした。ちょうど今、老僧がいらっしゃって私に十念を授けてくださったのです。普段は念仏嫌いなのになぜだか尊く思われて念仏を4、5遍称えたときに呼び起こされたのです」と言いました。妻の病気はすっかり治っていました。妻に祐天上人の名号の話をすると、今までの過ちを悔い、浄土宗に改宗して熱心な念仏信者となりました。
江戸白金上杉侯下屋敷の前に、河内屋久兵衛という者がおりました。その娘は南部遠州侯の母の女房に仕えていましたが、9月17日親元に帰った折に高熱を発して苦しみだしました。医者、祈祷も効果なく、親族は話し合って南部侯の家臣米沢市之丞を介して祐天上人の十念拝受を願い出ました。寛雅という僧がその話を上人に伝えました。上人は両親にただ後世をのみ願うよう諭して襟掛けと護符の名号をくださいました。久兵衛が家に戻り娘に護符名号を呑ませると、その夜娘は静かになり、翌日にはすっかり元気になりました。久兵衛が「昨日祐天上人に十念を授かったことを覚えているか」と問うと、娘は「広い野原で地蔵菩薩とおぼしき仏に向かい、拝んだことを夢のように覚えている」と言いました。
在家者への五重相伝の禁止
五重相伝とは、浄土宗の深奥の教えを伝授する法会のことで、在家信者にこれを与えることは元和元年(1615)に出された『浄土宗法度』で禁止されていました(「寛永14年の浄土宗」参照)。しかし、それでも五重相伝はひそかに行われていたらしく、たびたび禁止令が出されます。享保元年にも在家の者にひそかに五重相伝を授与することを厳禁するとの法令が出されましたが、例外として檀林寺院においては、50歳以上の信心深い者であれば1年間に2、3人程度の相伝を許すとされました。
7月に入寂した岸了に代わって8月、伝通院住職の沢春が知恩院住職となりました。沢春66歳のときでした。御経が贈られました。
新井白石(正徳元年「人物」参照)の自伝。享保元年起筆。上巻は祖父母・両親について言及し、自己の経歴を示しています。中・下巻は家宣将軍時代の政務や業績などについて記しています。書名は「思ひいづるをりたく柴の夕けぶりむせぶもうれしわすれがたみに」という『新古今和歌集』の後鳥羽上皇の名歌を踏まえて付けられたと言われています。自伝としては日本最古のもので、当時の政治についての重要資料としても貴重なものとなっています。