明顕山 祐天寺

年表

享保元年(1716年)

祐天上人

鎌倉高徳院不断念仏

鎌倉大仏高徳院(元禄16年「祐天上人」参照)では正徳2年(1712)以来不断念仏が行われていました(正徳2年「祐天上人」参照)。この年さらに鎌倉光明寺白随の世話で祐天上人と光寿院(松平伊賀守忠周室)はそれぞれ500両を寄進(高徳院境内石塔より)しました。

参考文献
『祐天大僧正実録』附、『開山大僧正祐天尊者行状・中興開創祐海大和尚略伝』、『顕誉祐天の研究―諸伝記とその行蹟―』

80歳の真影を写す

増上寺了月(享保3年「祐天上人」参照・のちに浅草行安寺に住す)に頼んで祐天上人80歳の姿を画に描いてもらいました。胸には上人直筆の名号を書き入れ、自身で開眼しました。

参考文献
『寺録撮要』1、『新撰往生伝』(『浄土宗全書』17)

森田市左衛門、霊土を集めに出発

森田市左衛門は江戸本船町に住んでおり、熱心な信者の1人でした(享保10年「説明」参照)。この頃は一本松に住んでいた祐天上人に、自分の本尊の開眼をしてもらうと、市左衛門は日本全国の霊地の土を集めに出発しました。帰ってくるのは5年後になります(享保9年「祐天上人」参照)。

参考文献
『寺録撮要』2、『本堂過去霊名簿』、「研究室だより」(伊藤丈、『祐天ファミリー』5号、1996年2月)

清岸寺結縁塔と手植えの桜

9月、品川清岸寺に祐天上人の名号を刻んだ結縁塔が建立されました。墓地に建つ結縁塔は土台から2メートル弱の高さで、正面に祐天上人の名号が彫られています。背面には中央に「当寺五世貫蓮社練誉上人遊国柳線(花押)」とあり、その左右に僧侶と在家の信者の名が30名余り刻まれています。その下段には建立の年号と月日が刻まれています。もとはこの塔の上にさらに1メートル余りの地蔵菩薩像(現在は無縁塚中央に安置)が乗っていたということです。

また、山門をくぐって下り坂の左側にある、樹齢200年から250年くらいの桜の老木は「祐天上人手植えの桜」と言われています。現在は品川区の指定天然記念物です。
清岸寺は麻布一本松の隠室から近い距離にあり、祐天上人が立ち寄ったとしても自然なところです。祐天上人の麻布での生活をかいま見るような風情をたたえた寺院です。

参考文献
「清岸寺の結縁塔」(玉山成元、『祐天ファミリー』11号、1997年4月)

伝説

十兵衛倅伊之助、ものを言う

武州川崎領小田村の名主十兵衛の一子、伊之助は、2歳になってもものを言わず、また狂乱することがたび重なったので、下女を3人抱えて代わる代わる子守りをさせていました。医薬も祈祷も効果がないまま、7歳になりました。享保元年正月、十兵衛は矢向村良忠寺の住持順阿に、「このままでは人間界に生を受けた思い出もなく、かわいそうであるから」と、祐天大僧正の拝服名号を得ることを頼みました。順阿も不憫に思い、麻布の祐天上人の隠室に参り、名号を拝受してきました。十兵衛が伊之助に名号を呑ませると、生まれて7年間もものを言わなかった子が声を上げて念仏を称え、それから半月のうちに言葉を覚え、狂気もすっかり治まりました。父母はもちろん、このことを見聞きする者も賞嘆したということです。

参考文献
『祐天大僧正利益記』下

伊左衛門、舎利を感得

2月、下総国葛西領小松村伊左衛門の娘は難病で医薬も効き目がなく、痛みに苦しんでいました。伊左衛門が祐天上人から拝受した名号を頂戴して、4歳という幼さながらも拝んでいたところ、数日来の病苦がやみ、念仏を称え眠るように息絶えました。野辺送りも済み、その名号を掛けて位牌を置き、伊左衛門ともう1人が念仏をしていたところ、手向けの水の中に光るものがありました。それは小豆大の舎利2顆でした。同年4月に伊左衛門は、その舎利を麻布隠室に持参して祐天上人にご覧に入れました。

参考文献
『祐天大僧正利益記』下

貞雄の悪瘡、消える

2月、増上寺の貞雄という僧が悪瘡を患いました。療治をしても効果がありません。あまつさえ鼻梁の肉が腐り落ちて骨が現れ、見苦しくて人中にも出られなくなりました。貞雄は深く厭離の心を起こして断食し、捨身往生を覚悟しました。しかし、命は諦めても鼻の痛みに耐えきれず、祐天上人の名号を鼻に張って念仏したところ、痛みがたちどころにやみ、鼻は治ってしまいました。貞雄はありがたさに涙を流しながら祐天上人に事の次第を述べました。その夜、祐天上人の夢に師匠の檀通上人が現れ、貞雄の不求自得の利益は奇妙なことではない、地獄の業火に焼かれる罪人すら念仏で救われるのだと説かれました。

参考文献
『祐天大僧正利益記』下

松田次左衛門妻、日蓮宗から改宗

松平采女の家臣、松田次左衛門の妻は一途に日蓮宗を信仰しており、ほかの宗派、特に念仏を誹謗していました。この年5月の初めから狂気して夫に向かい「さあ殺せ、なぜ殺さない」などと、刀を抜いて叫んだりするようになりました。親族の岩崎覚兵衛が「これは普通の病ではない。私は祐天上人の名号を持っているから守りとしなさい」と言いました。次左衛門がその夜、熟睡している妻の枕元に名号を安置し、しばらく経って薬を与えようと起こすと、妻は「あっ」と言って首を上げ、「残念でした。ちょうど今、老僧がいらっしゃって私に十念を授けてくださったのです。普段は念仏嫌いなのになぜだか尊く思われて念仏を4、5遍称えたときに呼び起こされたのです」と言いました。妻の病気はすっかり治っていました。妻に祐天上人の名号の話をすると、今までの過ちを悔い、浄土宗に改宗して熱心な念仏信者となりました。

参考文献
『祐天大僧正利益記』下

河内屋久兵衛の娘の急病、助かる

江戸白金上杉侯下屋敷の前に、河内屋久兵衛という者がおりました。その娘は南部遠州侯の母の女房に仕えていましたが、9月17日親元に帰った折に高熱を発して苦しみだしました。医者、祈祷も効果なく、親族は話し合って南部侯の家臣米沢市之丞を介して祐天上人の十念拝受を願い出ました。寛雅という僧がその話を上人に伝えました。上人は両親にただ後世をのみ願うよう諭して襟掛けと護符の名号をくださいました。久兵衛が家に戻り娘に護符名号を飲ませると、その夜は娘は静かになり、翌日にはすっかり元気になりました。久兵衛が「昨日祐天上人に十念を授かったことを覚えているか」と問うと、娘は「広い野原で地蔵菩薩とおぼしき仏に向かい、拝んだことを夢のように覚えている」と言いました。

参考文献『祐天大僧正利益記』下

人物

徳川吉宗

貞享元年(1684)~宝暦元年(1751)

8代将軍徳川吉宗は貞享元年、御三家の1つ紀州家徳川光貞の4男として紀州に生まれました(幼名源六、のち新之助、頼方)。母親は紋子(お由利の方)と言い、紀州家の家臣巨勢利清の娘ということになっていますが、実は利清は巨勢村の百姓だったと言われます。利清は大変な力持ちで、由利も父親に似て大女でしかも不器量でしたが、御殿の御湯殿の雑役をしているうちに光貞の手が付いたと言われます。吉宗もその血統を継ぎ、身長6尺(182センチメートル)もの豊かな大男でした。顔は色が黒くあばたがあったと言われます。

吉宗は和歌のような教養には無関心でしたが、農業、天文、暦、地理、法律などの実証的学問には大変関心がありました。将軍時代の寛保2年(1742)大洪水が関東から甲信地方を襲った際には、自分で記録していた雨水のたまり方からそれを予測し、救済対策を早くから立てておいたと伝えられます。

性格は自制心が強く、側近でさえも吉宗が怒って大声を出すのを1度も聞いたことがなかったそうです。服装は質素で冬でも襦袢を下に着ることはありませんでした。食事も1汁3菜でしかも1日2食を厳しく守りました。豪快な気風で公家風を嫌い、武士のスポーツである乗馬と鷹狩(享保元年・2年「事件・風俗」参照)を好みました。

吉宗は生前の祐天上人に面会しており(享保2年「祐天上人」参照)、また「今の世の出家と言えば祐天上人だ」と言って蓮糸の袈裟を贈る(正徳5年「祐天上人」参照)など、祐天上人に敬信の念を抱いていたようです。そのためか、享保12年(1727)、寛保2年(1742)、寛保3年(1743)、延享3年(1746)と4度も祐天寺に御成になり、ことに享保12年のときには祐天上人像を見て、「よく似ている」と近臣に漏らしています(享保12年「祐天寺」参照)。

紀州家の4男だった吉宗が将軍にまでなった過程には、相次ぐ親族の若死にがあります。まず宝永2年(1705)5月に紀州3代藩主になっていた長兄綱教が41歳で逝去し、その跡を継いだ3番目の兄頼職(次兄はすでに逝去)も同年9月に26歳で急逝します。そして吉宗は同年12月に紀州藩主となりました。それから享保元年5月までの12年間にわたる紀州藩主時代に、吉宗は藩内を良く治め、窮乏した藩財政を建て直し、すでに名君の誉れが高かったようです。享保元年に7代将軍家継が8歳で薨去すると次期将軍が問題となりました。御三家筆頭尾州家の徳川吉通もその子もともに正徳3年(1713)に逝去していたため、御三家第2位紀州家の吉宗に将軍職が回ってきたというわけです。

吉宗の在位は享保元年から延享2年(1745)の足掛け30年に及びましたが、これは徳川家の将軍の平均在位年数が17.7年であるのに比べると大変長いものです。その期間は享保の改革と呼ばれる多くの新しい政策が打ち出された時代でもありました。徳川幕府が成立してからすでに百数十年が経ち、既存の制度が実状と合わなくなりつつあった時代に、吉宗は社会の変化に合った体制を作ろうとしたと言えます。代表的なものとしては、相対済し令、物価引き下げ策、米価調節策、町火消の創設、小石川養生所の設置などです。

享保の改革を成し遂げ幕府中興を果たした吉宗は、延享2年将軍位を長男の家重に譲り大御所となりました。それからも政治に影響力を持ち続けましたが、宝暦元年に薨去しました。遺骸は遺言により、寛永寺の常憲院殿(綱吉)廟に合祀されました。

参考文献
「第八代徳川吉宗」(大石慎三郎、『徳川将軍列伝』北島正元編、秋田書店、1974年)、『吉宗と享保の改革』(大石慎三郎、日本経済新聞社、1994年)
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