7月30日、新宰相局から祐天上人へ、血脈を受けた(正徳4年「祐天上人」参照)あとの承秋門院のご様子などを知らせる手紙が来ました。門院、皇女、新宰相局は信仰を深め、日課念仏を増やして熱心に称えているとのことでした。
10月8日、祐天寺ののちの准3世檀的(元文元年「祐天寺」参照)の実母が逝去しました。新妻重春の妻です。法号は頓誉智教信女です。
12月28日(享保2年とも言う)、徳川吉宗(享保元年「人物」参照)が増上寺の宿坊で休息されました。その折、安立院(専誉円道)を使いとして、蓮糸で織った袈裟を祐天上人の一本松(『略伝』)隠室へ届けられました。紀州の城の庭の蓮糸を取ってそれに芭蕉布を加えた材料で、吉宗の側室於古牟の方が手縫いされたものです。即日、お礼に祐海が使者として伺いました(享保2年「祐天上人」参照)。
主計頭(松平昭利か)がのちに語ったところによると、縫い上がった袈裟を前に吉宗が於古牟に「この袈裟はどちらに差し上げたら良いだろう」と尋ねたので御側衆がいろいろなことを申し上げたところ、吉宗は「今の世の出家というのは祐天1人である。彼のもとに贈るべし」と仰せになったとのことでした。
祐海は、檀通上人(慶安元年「説明」参照)実家の菩提寺である、伊豆間宮村広度寺(天保5年「祐天寺」参照)に、白銀50枚を寄進しました。檀通上人の父は、小田原北条氏の浪人である八木和泉という人の弟で、又三郎と言いましたが、檀通上人がまだ幼少のときに病死したのです。
檀通上人は、父の遺言によって菩提所広度寺の中興開山光誉智当、第2世専誉意伯の弟子となり、剃髪しました。その後、増上寺に入山しました。寄進当時の広度寺住職は第12世祐存でした。祐海の弟子にも祐存という人物〔享保7年(1722)寂〕がおりますが、同一人物かどうかはわかりません。
神田新乗物町に住む奥沢了因の母は念仏信者で、長い間祐天上人の血脈をいただきたいと願っていました。馬喰町の丸屋善兵衛を通じて上人に願うと、上人は老母の志を憐れんで血脈をくださり、実誉貞真という法号を授けてくださいました。老母はうれし涙を流し、大願成就のお礼にと善兵衛に潟田千躰仏を譲りました。そのあとは念仏に一層励み、血脈をいただいて43日ののち、何の苦痛もなく命終しました。4月16日のことでした。
そののち老母の念仏の同行(仲間)で石町3丁目の弥右衛門という者が19日に見た夢に、老母は青と白の蓮華を持った侍女2人を連れて現れ、「4日前に命終して極楽に生まれました。あなたも念仏を怠らず来てください」と言ったので、弥右衛門が老母の安否を尋ねたところ亡くなったとわかり、霊夢だと知ったということです。
武蔵国川崎の矢向村(横浜市鶴見区)、良忠寺(正徳2年「祐天寺」参照)順阿は、昔から祐天上人の恩顧をこうむっていました。近村の者は順阿を頼んで祐天上人の大幅の名号を拝受して本尊とし、家々を代わる代わる当番として百萬遍を修したのでした。その中で戸手村の十兵衛は親の年忌に大幅名号を借り、同行を集めて念仏を勤めました。その翌日、十兵衛の下男伝左衛門は農作業を怠けて田の畦で居眠りしていました。同村の宇右衛門が呼び起こしてしかると、伝左衛門は「昨夜主人が一晩中念仏させ、無間地獄に堕ちる罪を造らせられて眠れなかったからだ」と悪態をつきました。伝右衛門は法華信者だったのです。そして「念仏を誹るのが悪いならば現世で瀬病となり、未来は無間地獄に堕ちよう」と誓いました。その日の夕暮れ、伝右衛門は急に高熱を発し、倒れて苦しみ出しました。十兵衛は驚いて即刻親元へ帰しましたが、顔に十字の青筋が現れ、翌日は耳と鼻から血が流れて五体が紫色になり、うめき叫んで死にました。11月17日のことでした。
観徹の述、良信の録とされます。観徹は祐天上人の弟子です。内容は、①三河大樹寺開山愚底大和尚伝、②大樹寺中興天堂大和尚伝、③増上寺中興観智国師伝、④増上寺阿弥陀仏霊像記の4篇から成ります。④の話は黒本尊(元禄15年「説明」参照)の霊験譚のことです。正徳2年(1712)に書かれた序文には、祐天上人が語られた内容を筆記した旨があります(宝永5年「祐天上人」参照)。