明顕山 祐天寺

年表

正徳4年(1714年)

祐天上人

紅葉山文昭院殿廟、真乗院の管轄に

5月12日、幕府は増上寺役者に、紅葉山文昭院殿廟は別当真乗院(正徳2年「祐天上人」参照)がその管轄を勤めるよう命じました。紅葉山は江戸城の本丸と西の丸の間の丘で、歴代将軍の廟が祀られていました。

参考文献
『徳川実紀』7、『図解江戸城をよむ』(深井雅海、原書房、1997年)

紅葉山文昭院殿尊牌の遷座供養

6月2日、紅葉山台徳院殿廟から新建の文昭院殿廟へ、文昭院殿の尊牌を移すため、祐天上人は供養を行いました。3日、祐天上人と衆僧に遷座供養の供物として銀が下されました。

参考文献
『徳川実紀』7

隠居

祐天上人は老衰を理由に昨年に続いて再び隠退を願い出ていたところ、それが6月19日に許されました。23日(『寺録撮要』には27日とある)、増上寺山内億道(真乗院住持、祐天上人弟子)の室へ仮に移りました。このときは移転の列に府内の檀林や法縁の者が従い、道俗が雲集して上人の隠退を惜しみました。

参考文献
『寺録撮要』1、『顕誉大僧正伝略記』、『実録』完、『縁山志』10(『浄土宗全書』19)

麻布一本松へ移転

増上寺の麻布一本松隠室は建物が傷んでいたので、急いで修理し、6月29日に祐天上人は真乗院からそこへ移転しました。一本松での生活は仏名を称え、仏号を書するのみの閑かな生活でした。高齢にもかかわらず、昼夜少しも怠りなくそれらの勤めは続けられたのでした。

参考文献
『顕誉大僧正伝略記』、『縁山志』10

松坂伊馥寺祐天名号石塔、建立

8月15日、松坂(三重県松阪市)伊馥寺に祐天名号石塔が建立されました。施主は富山氏です。この石塔は地蔵尊と並んで建っています。

参考文献
祐天名号石塔(伊馥寺境内)

承秋門院へ血脈

京の承秋門院は祐天上人の道風を慕い、7月20日に上人から宗脈と印璽を受けました。また、祐天上人の名号も拝受されました。承秋門院は故知恩院門跡尊統法親王の姉で、法親王から祐天名号も譲られています(宝永7年「祐天上人」参照)。今回は、京の真如堂住職の高誉を通じて受けられました。皇女と乳母、新宰相局もそれにならいました。承秋門院の法号は承秋院崇誉興徳大禅定尼です。血脈を受けたことで念仏信仰は深まったのでした(正徳5年「祐天上人」参照)。

参考文献
『顕誉祐天の研究―諸伝記とその行蹟―』、『顕誉大僧正伝略記』、「一蓮託生の思い」(玉山成元、『THE祐天寺』26号、1993年7月)

承秋門院より袈裟の寄進

10月28日、承秋門院は血脈を受けた御礼に祐天上人に、金襴九条の袈裟と座具を寄進しました。祐天上人像(享保4年「祐天寺」参照)が召されている袈裟はこれをかたどったものです。皇女は金扇を、新宰相局ははなだ帽子を供施しました。

参考文献
『顕誉大僧正伝略記』、『縁山志』10(『浄土宗全書』19)

松坂西方寺に大打敷を寄進

初冬、祐天上人は松坂西方寺(元禄10年「伝説」参照)へ、常念仏堂の什物として大打敷(仏具の下に敷くもの)を寄進しました。

参考文献
「清水西方寺と祐天上人」(玉山成元、『祐天ファミリー』8号、1996年9月)、「祐天上人の礼状とお袈裟」(玉山成元、『祐天ファミリー』6号、1996年4月)

防火

祐天上人の前任、門秀の代には8年間に6度の火事が増上寺で起こり、方丈、庫裡、書院などが焼失したりしました。このため門秀は幕府から辞職を勧告され、隠居したのでした。その跡を継いだ祐天上人は防火には注意を払ったと思われ、上人の住した期間、増上寺には1度も火災がありませんでした。

参考文献
『徳川実紀』6、7

伝説

夢に仏の姿、法然上人、聖聡上人を見る

麻布(一本松か竜土か不明)におられる頃、祐天上人は夢にありありと仏のお姿を拝しました。また法然上人にまみえ、聖聡にも対面したそうです。

参考文献
『顕誉大僧正伝略記』、『縁山志』10

事件

絵島事件

正月12日、文昭院殿(家宣)と常憲院殿(綱吉)廟へ月光院の代参として、大奥大年寄絵島(「人物」参照)は増上寺へ、宮地は寛永寺へ参詣しました。その帰途、2人と連れの女中たちは木挽町山村座で観劇し、そののち座元山村長太夫宅での役者を招いての宴席に出席したのでした。

大奥の女中の観劇は往々にしてあることでしたがこの折のことはなぜか公儀に取り上げられ、死罪、流罪の者を多く出す過酷な処罰の対象となったのでした。世に言う絵島事件です。

2月2日、重役によって評議がなされ、呼び出された絵島以下観劇に参加した女中57人は永の暇(退職)を言い渡され、大奥の局の象徴である打ち掛けを脱ぐことを命じられ、即刻不浄口とされる平川口より出されて宿元へお預けの身となりました。

翌3日から関係者の取り調べが始まり、絵島も上り牢にて目付稲生次郎左衛門、丸茂五郎兵衛より尋問を受けました。絵島は観劇の他に生島新五郎との交際を疑われていたのですが、白状しないため3日3晩に渡って現責め(寝させないで尋問をする責め)をされたと言います。しかし、絵島は毅然とした態度を崩さなかったそうです。3月5日、判決が出されました。絵島は内評議で死罪と決まっていましたが議論あって俵島への遠流とされたのでした。月光院はこれを聞いて心を痛め、将軍家継の直裁として遠流の地を内地である信州高遠内藤家へのお預けということにさせました。絵島の兄で親元である白井平右衛門は死罪となり、観劇の手引きを行った呉服商、後藤縫殿介は閉門、日頃絵島と親しかったという奥医師奥山交竹院も流罪、その子で放蕩者であり、今回の観劇の企画者であった奥山喜内は死罪になりました。絵島の相手役とされた生島新五郎は三宅島へ遠流となり、山村座は廃絶となって座元長太夫も大島へ遠流となりました。

300余人の者が罰せられた絵島事件の概要は以上のとおりですが、この事件には大変謎が多いとされています。まず、なぜ奥女中の観劇くらいにそれほどの罰を与えるのかということです。これには老中秋元但馬守の思惑があったとか、天英院と月光院の確執の犠牲となったとか、さまざまな説があるようです。また、観劇が公儀に知られた経緯についても、絵島たちの輿に付いていた下役人の申し出である、家継の乳母が増上寺に参詣したときに祐海が「今後、参詣後に方丈にも寄らずに劇場へ行くのはやめていただきたい」という形で述べたことが広まったなど、諸説があります。当時の増上寺住職は祐天上人であるところから、祐天上人が公儀に申し上げたという噂まであったようです。

ともあれこの事件は多くの犠牲者を出したうえで終わりますが、その後の芸能関係への規制が厳しくなるきっかけとなったのでした。

参考文献
 『三女中御刑罰之事略』(墨海山筆第15巻、内閣文庫蔵)、「江戸幕府大奥 絵島の生涯」(高木文、『高木文随筆』2、聚芳閣、1926年)、「絵島事件に関する考察―祐天上人関与の噂をめぐってー」(浅野祥子、『ぐんしょ』46号、群書類従完成会、1999年10月)

人物

絵島

天和元年(1681)~寛保元年(1741)

絵島の生まれには諸説あり、どれが正しいかはわかっていません。その1つは、三河国(愛知県)刈谷に身分の軽い者の子として生まれ、幼少のうちに関東に売られて吉原の遊女となったが、禄高の低い御家人である白井平右衛門に請け出されたというものです。その平右衛門は長く離れていた父であったという説もあります。また一説には江戸の生まれで市村座の看板たたき達摩三郎兵衛の娘だったともあります。そのほか配所になった高遠には、大和郡山の生まれで江島徳兵衛という者の娘だったと伝えられています。

いずれも伝説の域を出ないものですが、身分の軽い者の娘であったことは確かであろうと言われます。というのは、絵島事件(「事件」参照)の折に身元を調べたところ、不明で確かな親戚はいなかったとされているからです。兄で宿元となっていた白井平右衛門は仮の宿元で、実の兄ではありませんでした。親戚でない者を奉公に出したということが平右衛門の罪状の1つにも数えられています。

絵島は若いときには紀州家 徳川綱教の室、鶴姫に奉公していました。宝永元年(1704)の鶴姫逝去により、甲州家宣の愛妾お喜世の方(のちの月光院)に仕え、その年12月に家宣が5代将軍綱吉の世継となり江戸城二の丸に入ると、お喜世の方のお供として大奥に入ったのです。このとき絵島は24歳でした。宝永6年(1709)7月、主君お喜世の方が鍋松丸(家継)を平産すると、絵島は400石の御年寄に昇りました。このときから絵島と称するようになります。正徳2年(1712)、家継が将軍職に就くと絵島は破格の大年寄になり、600石をたまわりました。32歳のときです。

絵島は才知があり、しかも美貌に恵まれていました。懐月堂安度が描いた美人画は絵島がモデルだと言われています。大柄で豊かな感じの美女であったようです。性質は闊達であり、また寛大であったと伝えられています。

絵島事件(「事件」参照)の際に交際相手と疑われた生島新五郎との恋愛が事実であったかどうかは定かでありません。

お喜世の方(月光院)の信頼を得て、大奥で立身を極め、手に入らないものがなかった絵島は、やや自己保身に疎かったのかもしれません。芝居見物という、大奥の女房でもしばしばひそかに行っていたことを、このときに限って大きく取り上げられ、さらに尾ひれをつけて罪に落とされた絵島は、大きくなりすぎていた大奥の権威を粛正するための犠牲者となったとも言われています。

高遠に配流されてから28年間を、絵島は幽囚の人として過ごしました。周囲の人々は最初こそ警戒していましたが、粗末な生活に文句も言わない絵島のきちんとして慎ましい暮らしぶりを見て、崇敬の念を禁じえなかったと言います。自分に付いた侍女にさえ、大奥のことや江戸の様子を語ることはありませんでした。しだいに拘束も解かれ、歩いて近在の寺へ法話を聞きに行くことが許されました。晩年は日蓮宗遠照寺によく通い、法話のあと上人と碁盤を囲むことを楽しみとしたようです。

寛保元年4月10日、風邪から体調を崩した絵島はついに亡くなりました。罪人であるので遺骸は塩漬けとされ、25日に江戸からの検使による見分を受けたのちに埋葬が許されました。絵島は城下日蓮宗蓮華寺に葬られ、死をもってようやく囚われの生活を逃れて自由の身となったのでした。

絵島の作として伝えられるものに次の歌があります。
世の中にかかるならひはある物と
ゆるす心のはてぞ悲しき

参考文献
『江島実記―正徳四年木挽町狂言座 山村長太夫断絶之記』(国会図書館蔵)、『絵島高遠流罪始末』(日本行刑史研究会編集発行、1976年)、「江戸幕府大奥 絵島の生涯」
TOP