明顕山 祐天寺

年表

正徳03年(1713年)

祐天上人

磐城専称寺に寄進

正月11日、磐城専称寺(名越派の檀林。江戸時代は奥州の総本山)の本堂修理のために、祐天上人は100両を寄進しました。祐天上人は元禄9年(1696)正月15日にも、江戸崎大念寺に什物修復と日牌料として100両を寄進しており、寺院に多額の寄進を時折していたことが知られます。

参考文献
『増上寺顕誉祐天寄付状』(「専称寺文書」、『関東浄土宗檀林古文書選』宇高良哲編著、東洋文化出版、1982年)、『増上寺顕誉祐天書状』(「大念寺文書」、『関東浄土宗檀林古文書選』)

月光院に阿弥陀如来像を差し上げる

夏、月光院(享保5年「人物」参照)は祐天上人の奉持する阿弥陀如来像〔1尺6寸(約53センチメートル)〕を江戸城内に迎え、将軍家継守護の本尊としました。

参考文献
『略記』、『寺録撮要』1、『実録下書』完、『祐天大僧正伝』(合一叢書、内閣文庫蔵)、『開山大僧正祐天尊者行状・中興開創祐海大和尚略伝』

幕府、真乗院億道に調度金をたまう

8月7日、幕府は霊廟の別当真乗院億道(正徳2年「祐天上人」参照)に調度金300両(約1、800万円)をくださいました。

参考文献
『徳川実紀』7、「異彩を放つ亀の台座―真乗院歴代の墓地(第1墓地)―」(中島正伍、『THE祐天寺』19号、1991年9月)

月光院、剃度式

9月、月光院は祐天上人を請じて戒師となし、剃度(信者の頭上に剃刀を当てて剃髪に擬す「おかみそり」の儀式)しました。幼い将軍の生母なので、まだ落飾はできなかったのでしょう。〔落飾はのちに享保6年(1721)に祐海を導師として行います(享保6年「祐天寺」参照)〕。このとき月光院は、祐天上人の金襴五条の法衣、数珠、血脈を請い受けました。

参考文献
『略記』、『実録下書』完、『開山大僧正祐天尊者行状・中興開創祐海大和尚略伝』、『祐天大僧正伝』(合一叢書)

江戸城で黒本尊法要

10月、天英院は祐天上人に命じ、黒本尊を江戸城内に奉持させました。祐天上人に乗り物で殿階に昇ることを許し、しとねをたまいました。のちに造られた祐天上人像(祐天寺本尊)がしとねを敷いているのは、これをかたどっているのです。天英院、さらに法心院、蓮浄院が祐天上人より宗脈と念珠を受けました。また、侍女たちは十念を拝受したのでした。
黒本尊は城中に2、3日とどまり、祐天上人は祐海を迎えに遣わしました。黒本尊が増上寺に戻る途中、加賀家の室〔『縁山志』には前田光高室の清泰院とあるが、清泰院は明暦2年(1656)逝去のため、綱紀室(保科正之の娘)であると思われます。また、綱紀嫡男の吉徳室松姫(享保4年「人物」参照)も当時邸内で像を拝したことでしょう〕から請われて加賀家へ立ち寄り、加賀家の人々も各々礼拝して結縁しました(『開山大僧正祐天尊者行状・中興開創祐海大和尚略伝』、『縁山志』巻10)。
天英院は黒本尊のために新しく荘厳精巧な仏龕を作りました。

参考文献
『略記』、『祐天大僧正伝』(合一叢書)

文昭院殿1周忌

10月14日、増上寺で文昭院殿1周忌の法要が行われました。法会の並び方などは清揚院殿33回忌のときと同じでしたが、知恩院宮門跡は空席で下向がなかったため、祐天上人は門跡に准ぜられた並び方をしました。

参考文献
『塩尻』巻52(天野信景、『日本随筆大成』3期15巻、吉川弘文館、1977年)

月光院、従三位に

11月6日、月光院は朝廷より従三位に叙せられました。21日、祐天上人はそのお祝いに二種500疋を将軍と月光院に献上しました。

参考文献
『徳川実紀』7

辞職を願うが許されず

12月3日、祐天上人は年を取り足も弱くなったことを理由に辞職を願い出ますが、許されませんでした。

参考文献
『徳川実紀』7

水野忠周、書付を記す

12月16日、水野出羽守忠周(享保3年「祐天上人」参照)は祐天上人よりたまわった白地金襴の袈裟についての書付を記しました。この書付によれば、忠周先祖の忠清は水野家の相続が危うくなったときに家康の援助により相続を行うことができ、7万石にまで取り立てられました。家康は忠清に浄土宗への改宗を命じ、水野家は代々浄土宗になり、その証文として忠周は祐天上人より袈裟を授かったとあります。さらに子孫に代々転宗を禁じる旨などを記してあります。袈裟には祐天上人真筆の名号が書かれていました。

参考文献
『寺録撮要』2

将軍に歳暮

12月24日、例年のように祐天上人は茶などを、伝通院弁意は蜜柑を、家継に献上して歳暮を祝いました。

参考文献
『徳川実紀』7

祐天上人喜寿像、制作

正徳3年、京の仏師七条左京が祐天上人77歳の姿を写して肖像を刻みました。この像は祐天上人自身が開眼し、増上寺開山堂に安置しました(天明7年「祐天寺」参照)。

参考文献
『寺録撮要』1、「祐天上人の木像」(玉山成元、『THE祐天寺』29号、1994年3月)

幡貞、十万人日課念仏の願い起こす

この頃、勢州(伊勢)松坂清光寺第23世幡貞は、10万人に日課念仏をさせるという願いを起こしました。そして日課念仏を始める人々には、祐天上人の名号を渡して本尊とするよう勧めました。これにより組織された念仏講は十万人講と呼ばれました。『利益記』に、正徳3年に松坂で授与された名号の奇瑞に遭った人々の話が多い(「伝説」参照)のは、このことによると思われます。

参考文献
『利益記』、「松坂の清光寺」(玉山成元、『THE祐天寺』34号、1995年7月)、「今に生きる安産のご利益」(玉山成元、『祐天ファミリー』5号、1996年2月)

尾道正授院に画像を寄進

祐天上人は12月7日、尾道正授院(元禄15年「祐天上人」参照)の常念仏のために自分の画像と名号数幅を寄進しました。それと一緒に桂昌院の念持仏、子安観音(厨子入り)と知恩院円理の名号も届けられました。子安観音は増上寺貞誉了也に付属されていた(了也は桂昌院の葬儀の導師を勤めた)のですが、宝永5年(1708)に了也が寂しているので弟子の了般(正授院で出家)により、正授院に寄進されたようです。

参考文献
『覚書』(正授院第6世良頓、享保2年筆、尾道正授院蔵)、祐天上人画像(尾道正授院蔵)

祐頓、鴻巣勝願寺へ

12月22日に第16世在円が入寂したのに伴い、祐天上人の弟子の祐頓が鴻巣勝願寺の第17世住職となりました(享保6年「祐天寺」参照)。祐頓は松平少将越前守の子息です。

参考文献
『鴻巣勝願寺志』(『浄土宗全書』20)

伝説

貞讃尼に名号の霊夢

3月、江戸芝牛町徳右衛門の伯母貞讃は、刷られた祐天上人の名号を経師屋に表具を頼みながら、ひそかに「直筆ならばもっと信仰するだろう」と思いました。その夜の夢にその名号が輝きながら清い蓮華に乗って現れ、貞讃の誤りを諭しました。それから貞讃はその名号を本当の仏のようにあがめ、翌年往生しました。


幡貞配布の祐天名号の利益

この頃、京の日暮通り出水下ガル所の酢屋七右衛門の母、妙寿は、夫と子に先立たれ、貸家も焼けてしまい、眼を泣きつぶしてしまいました。悲しむ妙寿を、隣家の信心深い女が「松坂清光寺幡貞和尚が日課念仏10万人の願いを起こして券契(約束の証)として祐天上人の名号を授けている。まずあなたにこれをあげますから、日課念仏を称えなさい」と懇ろに説きました。妙寿はありがたく思い、念仏を称えていると、3日3晩経ったときに両眼が開き、もとどおり見えるようになったということです。


竹屋町の取り上げ婆の往生

京の竹屋町に慳貪な取り上げ婆がいました。人に1銭の施しをしたことも、1遍の念仏を称えたこともありませんでした。ところが、ある人に勧められて松坂清光寺幡貞和尚の十万人講に参加をしてからというもの、取り上げ婆は熱心な念仏信者になりました。しかし、重病になり正徳3年5月15日、高声念仏とともに息絶えました。また、この婆には娘がおり、6年前より難産のため足が立たなかったのですが、母の正念往生の様子を見て自分も十万人講の日課念仏を行いました。すると日ごとに気力が回復し、ほどなく歩けるようになったということです。


紀伊国屋太郎兵衛娘の奇病本復

江戸本所一ツ目、紀伊国屋太郎兵衛の娘るよは、3歳のときからほんの少しのうたた寝にも正体なく熟睡してしまうという奇病でした。無理に起こすと、目を剥き歯ぎしりして悶絶してしまうのでした。両親は医術、祈祷の限りを尽くしましたが、10年経っても治りません。深川六間堀冬木三左衛門の手代、伊勢屋弥市は祐天上人のおなじみでしたので、この人を頼んで増上寺に参り、祐天上人の十念を拝受しました。親族の中に恨みを含んで死んだ者はあるかとの問いに、妙円という尼が非業の死を遂げたことを話しました。祐天上人は妙円のために血脈をくださり、念仏を勧めました。言葉どおりに毎日百萬遍念仏を称えると、娘の奇病は10日を経ずに平癒しました。9月中旬のことでした。

参考文献
『利益記』中・下

寺院

増上寺に文昭院殿霊屋、建立

正徳2年(1712)に薨去した将軍家宣(文昭院殿)を祀る霊廟は、2月18日に造営が始まり、9月5日に上棟されました。翌6日には霊元法皇の宸筆による勅額が掲げられ、20日に御影の開眼供養が行われます。この開眼供養法会の導師は祐天上人が勤められました。


伝通院、僧侶の命令違反を罰す

小石川伝通院内で、僧侶たちが徒党を組んで伝通院や増上寺からの命令を拒否するという事件が起こりました。困惑した伝通院が幕府に上裁を願い出ると、幕府は伝通院から直接、その僧侶たちに罰を与えて良いとの裁決を下しました。

参考文献
『徳川実紀』7、『浄土宗大年表』

出版

『日本新永代蔵』

浮世草子。北条団水著。正徳3年刊行。団水は井原西鶴門下の俳人で、西鶴没後、遺稿を整理し出版した人物です。井原西鶴の『日本永代蔵』にならい、自著に『日本新永代蔵』という題を付けました。銅商人の中嶋屋秋甫が一度破産しましたが、のち仕事に励み倹約し、鉱山の請負をして金持ちになったという話(巻1の1)や、一度破産したが廻船問屋を作って儲ける話(巻6の3)などがあります。序文に「一日の油断は一年の怠り、是一生の損、取かへすあたはず……」とあり、この部分の内容にも西鶴の模倣が見られます。特徴としては教訓的な言葉が多く使われていることです。

参考文献
『日本古典文学大辞典』
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