明顕山 祐天寺

年表

正徳2年(1712年)

祐天上人

門学院に寄進

正月、祐天上人は故郷磐城の門学院に、諏訪明神社の永代修復料として、5両を寄進しました。祐海の書いた寄進状が残っていますが、その宛名は門学院岡田四兵衛殿、新妻小左衛門殿となっています。門学院の管轄する諏訪明神社は、氏神として祐天上人生家の地域で崇められていました。それゆえの寄進でしょう。門学院はまた、祐天寺第9世祐東(享和3年「祐天寺」参照)の出身の家と考えられます。

参考文献
『覚』(磐城門学院蔵)、『本堂過去霊名簿』

祐海、長悦の像をたまわる

この年祐海は、祐天上人長悦の像をたまわりました(宝永4年「祐天上人」参照)。前年の正徳元年(1711)に像を所持していた祐海養母の陽花院香青が亡くなり(正徳元年「祐天上人」参照)、譲り受けたのです。

参考文献
『寺録撮要』1

家宣、増上寺に参詣

正月24日、将軍家宣は増上寺に参詣しました。祐天上人が増上寺に入院してから初めての参詣なので、祐天上人は檜重を献上して拝謁し、将軍より銀200枚、時服5をたまわりました。

参考文献
『徳川実紀』7

大奥にて金襴織物をたまわる

3月、祐天上人は大奥へ召され、金襴の織物をいただきました。それで九条・七条・五条の袈裟を仕立てて、法要の折や江戸城へ登るときに着用したということです。

参考文献
『寺録撮要』1、「将軍家宣の帰依」(玉山成元、『THE祐天寺』7号、1988年10月)

良忠寺を知恩院直末に

武蔵国良忠寺(横浜市鶴見区矢向町)は仁治元年(1240)、浄土宗第3祖記主禅師良忠が霊夢を感得し、鶴見川岸において薬師如来像を得、その安置のために起立した寺です。その後は衰退し、慶運寺の僧が中興した由来により慶運寺末となっていましたが、正徳2年5月に祐天上人は、良忠開山の寺を慶運寺末としておくのは祖師に対して済まないとし、知恩院直末となりました。また、上人は第41世徹玄の代の本堂を改築し、荘厳具の整備を助け、良忠寺は興隆しました。良忠寺什宝には祐天上人の「知恩院直末書」や祐天名号、打敷、そのほか多くの上人関係品があります。境内には祐天上人短冊の藤(推定樹齢600年)があると言います。

参考文献
『新編武蔵風土記稿』3(蘆田伊人編集校訂、大日本地誌大系9、雄山閣、1996年)、『法然上人七百五十年御忌記念 浄土宗神奈川教区寺院誌』(大橋俊雄、神奈川教区教務所、1962年)、『良忠寺誌』〔森本祐堂(良忠寺内)編集発行、1971年〕

家宣に甘瓜を奉る

6月20日、祐天上人は家宣に暑中の見舞いに甘瓜を献上しました。

参考文献
『徳川実紀』7

鎌倉高徳院常念仏、始まる

正月12日に鎌倉高徳院の学舎が建ち(12日の銘が記された灯籠が高徳院境内にある)、15日に常念仏も始まりました(『壇通上人御腹内書附』)(元禄16年・享保元年「祐天上人」参照)。また、浅草の野島新左衛門(秦祐)は8月、天領であった鎌倉長谷村・坂ノ下村の田畑永別高4貫659文分と反銭314文分の土地を光明寺へ寄進しました。

参考文献
『鎌倉大仏様の復興』(玉山成元、『THE祐天寺』6号、1988年7月)、『鎌倉市史』史料編3(鎌倉市史編纂委員会、吉川弘文館、1987年)、『壇通上人御腹内書附』書写状(祐天寺蔵)

祐天上人叔父の八左衛門、寂す

10月4日、祐天上人の叔父、新妻八左衛門が寂しました。八左衛門は祐天上人が12歳で磐城から江戸に出るとき同道し、増上寺にいた叔父、休波に託した人です。法号は性誉道法大徳です。

参考文献
『本堂過去霊名簿』

家宣、病に伏す

10月、家宣は重い病にかかり重態となりました。祐天上人は命を受け、黒本尊(元禄15年「説明」参照)を奉じて登城し、家宣は病床で黒本尊を礼拝したのでした。祐天上人はかつて家宣側近の間部詮房に黒本尊を尊重するよう諫言したことがあり、それが受け入れられて臨終正念のための黒本尊礼拝が実現したのかもしれません。

参考文献
『略記』、『縁山志』10(『浄土宗全書』19)

家宣、薨去

10月14日、家宣は薨去しました。廟所は増上寺に設けられ、15日に納棺されました。柩には祐天上人紺紙金泥名号と血脈を納めた桐箱が入れられることになりました。
20日に柩が増上寺に移されました。この日、祐天上人を名代として伝通院弁意が増上寺役者を連れて登城し、柩前で焼香し、すぐに帰寺しました。役者が柩に付き添っていよいよ出発しました。この役者の中に当時二臈だった祐天上人の弟子の祐頓もおり、洒水(香水を持して物を浄める役)を勤めました。檀林の住持たちと幕臣が見守る中、葬列は粛々と進み、増上寺に到着しました。柩所にて四奉請(諸々の仏菩薩を法要の場に迎える偈文)、後夜偈、別時念仏が行われました。開白は祐天上人がされました。
21日より法要が営まれました。11月2日、柩を廟所に納め、盛大な葬儀が営まれました。導師は祐天上人が奉修しました。大念寺観徹も行列に加わっています。祐頓はこの日は小松明の係、雲洞は血脈・名号の箱を持つ係でした。侍者は檀的、香炉を持つ役は祐海と順阿が勤めました。寂天は経箱を持ち、祐岸は紗籠を持つ役など、祐天上人の弟子たちの多くもこの法要に参列しました。日没の時雲がかかってきたと思うとかぐわしい香りが漂い、花と舎利が降ってきました。人々は家宣の往生の印であると噂し合いました。また、その夜には月の中に皓々と輝く明るい星が現れ、月を一部隠すという前代未聞の奇瑞が起き、これにも人々は驚嘆したのでした。
この法要のときの祐天上人の引導を引いておきます。

夫れ我が弥陀は名を以て物を棲す。是を以て耳に聞き口に無辺の聖徳を誦す
れば識心に攬入す。ここに大将軍順蓮社清誉廓然大居士奇載始めて本願他力
の大道に入りて頓に廓然大悟の無證を證る。證り已ぬれば生死の岸頭に出て
大自在を得、六道四生遊戯三昧ならん。

そののち7日ごとの法要が修され、11月10日、朝廷より家宣に正一位太政大臣が追贈されました。また、法号は文昭院殿と定められました。11日には七七日の法要があり、祐天上人が勤めました。

参考文献
『文昭院様御新葬記』(安政5年写、増上寺蔵)、『顕誉大僧正伝略記』、『徳川実紀』7

天英院に檜重を献じる

10月26日、祐天上人は天英院に檜重を献じました。増上寺の先例にならってのことです。

参考文献
『徳川実紀』7

文昭院殿初月忌

11月14日、文昭院殿の初月忌に、阿部豊後守正喬が増上寺に参拝しました。勅使をはじめ公卿も参堂しました。祐天上人に銀2、000枚、時服10、前大僧正門秀に銀200枚などの布施物が下されました。

参考文献
『徳川実紀』7

家継に岩茸などを献じる

12月7日、祐天上人は次期将軍となる家継と天英院に岩茸と干菓子を献上しました。
また、16日には草花と蜜柑を献じました。

参考文献
『徳川実紀』7

黄檗宗悦峯禅師に面談

冬、黄檗宗悦峯禅師が江戸に来、文昭院殿の位牌に参拝しました。そして祐天上人に面会し、「中国においてもすでに上人の名は聞いていた、お会いできて幸いである」と述べました。2、3年のち、悦峯は遠方より手紙を送ってきたということです。しかし、悦峯は祐天上人が有名になる前からすでに日本にいたようです。

参考文献
『顕誉大僧正伝略記』本伝遺事附録、『顕誉祐天の研究―諸伝記とその行蹟』

祐天上人寿像を制作

冬、仏師竹崎石見により祐天上人寿像が造られました。この像は60センチメートルくらいの坐像で、緋衣に水冠を着けた姿で合掌しています。この像は、寛政5年(1793)祐水が百萬遍知恩寺第54世として晋山したとき持参したと言われます(寛政5年「祐天寺」参照)。今では百萬遍知恩寺御影堂内に安置されています。

参考文献
『寺録撮要』1、「百万遍知恩寺と祐天上人」(玉山成元、『THE祐天寺』18号、1991年7月)、「祐天上人生き写しの御影」(伊藤丈、『祐天ファミリー』5号、1996年2月)

別当寺院真乗院、創建

増上寺内に、文昭院殿の霊廟をつかさどる別当寺院真乗院ができ、初代住持として、祐天上人の弟子で当時学寮主であった億道(『大蔵経』を祐天寺に寄進した人物。寛保2年「祐天寺」参照)が住しました。12月26日、億道は別当職任命を将軍家継に謝しました。

参考文献
『徳川実紀』7、「異彩を放つ亀の台座―真乗院歴代の墓(第1墓地)―」(中島正伍、『THE祐天寺』19号、1991年9月)

弟子寂天、西応寺に住

祐天上人の弟子の寂天(享保7年「祐天寺」参照)が、芝の西応寺に住しました。

参考文献
『本堂過去霊名簿』

知恩寺に寄進

祐天上人は、『文昭院殿家宣公奇瑞記』という書物とともに200両の寄付金を百萬遍知恩寺に奉納し、家宣の菩提を弔いました(享保8年「祐天寺」参照)。

参考文献
『百萬遍知恩寺誌要』(『浄土宗全書』20)

関通に五重、三脈を伝授

この年祐天上人は、関通に五重を授けました。また、三脈を授けたとも言われます。関通はのちに捨世主義をとり、浄土律の興隆に努めた人物です。

参考文献
『関通和尚行業記』(『浄土宗全書』18)、『浄土宗全書』20

鈴声庵扁額を揮毫

祐天上人は下総国飯沼羽生村(茨城県水海道市)瘡阿弥陀に「鈴声庵」という額を揮毫しました。祐海筆の『瘡阿弥陀縁起』によると、瘡阿弥陀の起こりははっきりせず、いつ頃からか弘経寺近くに仮屋を造って祀られていたようです。

寛文の頃(1661~1672)、弘経寺の南了という僧が癩病を患いました。南了はこの阿弥陀如来像に7日7夜の間こもって念仏したところ、7日経たないうちに病は治り身体堅固になったということです。このゆえに誰となく瘡阿弥陀と呼ぶようになったのです。

そののち欣心という者が庵主の頃、昼夜勤行を続けた報いか、奇瑞が現れるようになり、特に鈴の音がして読経の声が聞こえることがたび重なりました。欣心は感激してこのことを弘経寺に告げたところ、当時住職だった檀通上人の耳に入り、堂宇を建てて鈴声庵という額をたまわりました。

また、弘経寺の住職が茂山(第21世茂産か)のとき、産栄という学僧がいました。不慮の難病となって、もしこの病が平癒したら別に仏像を造立してこの阿弥陀仏をその腹内に納めようと瘡阿弥陀に願を立てました。病は治り、産栄は1尺8寸(約54センチメートル)の阿弥陀仏坐像を造立し、瘡阿弥陀を腹内に納めました。そのほか利益を受けた者は数限りなくいるということです。

正徳2年に祐天上人が揮毫した額は、庵主道欣が檀通上人の弟子である祐天上人が増上寺大僧正となられたことを喜び、新たに祐天上人に願ったものです。

参考文献
『瘡阿弥陀縁起』(祐海、『水海道市史資料集』2、水海道市史編さん委員会、1971年)、『飯沼弘経寺志』(『浄土宗全書』19)

伝説

葛西の権兵衛の得益

江戸馬喰町に津島屋六郎左衛門という旅籠がありました。5月17日、露藤村の名主、平左衛門が逗留したときのこと、梯子段から降りるひょうしに平左衛門の脇差しが鞘から抜けて、階下に落ちてしまいました。運悪く梯子の下には泊まり客の葛西の権兵衛という者が寝起きしていましたが、脇差しはその権兵衛の首に突き刺さり、権兵衛はひと声叫ぶと倒れてしまいました。平左衛門も宿の亭主の六郎左衛門も大あわてで脇差しを抜き、薬を与えて介抱したところ、権兵衛は息を吹き返しました。よく見ると脇差しは権兵衛が引き被って寝ていた着物を貫いただけで、身には少しの傷も与えていなかったのです。皆不思議に思い、お守りを持っていたのかと問うと、権兵衛は先頃回向院で奥州米沢(山形県)阿弥陀寺の宝物開帳を行っていたとき祐天上人の名号を拝受して襟掛けとし、常に信仰して念仏していると答えました。「この利益でしょうか」と言いながら名号を開いてみると、名号を貫いた刃の痕が厳然と残っていました。これを見た人は皆驚嘆して念仏への信仰を増しました。

参考文献
『祐天大僧正利益記』中

出版

『死霊解脱物語聞書』再版

祐天上人が累の死霊を得脱成仏させた霊異を描いた作品『死霊解脱物語聞書』(元禄3年「出版」参照)が、正徳2年に再版されました。祐天上人が増上寺に住し、世の人々の祐天上人への信仰も増した時期に合わせての出版と言えます。

参考文献
『日本古典文学大辞典』

人物

徳川家継

宝永6年(1709)~享保元年(1716)

将軍家宣は、6人の子供のうち5人までを幼いうちに亡くしたため、ただ1人残った家継(幼名 鍋松)を大変かわいがったと言います。正徳2年(1712)9月、はやりの風邪で病床に就いた家宣は、やがて自分の死期が近いことを悟ると、幼くして将軍となる鍋松を正しい道へ導いていってくれるよう家臣たちに遺言しました。正式な鍋松の7代将軍就任は、家宣薨去の翌年正徳3年(1713)4月2日のことです。

家継の生母はお喜世の方と言い、家宣薨去後は剃度して月光院と名乗りました(正徳3年「祐天上人」・享保4年「人物」参照)。家継出産後は和漢の書を読み、和歌も習い、家継の教育にも熱心な賢夫人だったと言われています。そのような母を持ち、また家宣の遺託により家継の養育を担った間部詮房に厳格な教育を受けたため、家継は幼いながらも上に立つ者としての威厳があり、立ち居振る舞いも落ち着いていて、子供にありがちな公私の判別がつかないということもなかったそうです。慈悲深く、「施与」を好んで御三家の者たちに対してよく物を与えたりしており、老中たちにも敬いの念を忘れませんでした。そのような幼将軍の態度に感激して、涙を流す者さえいたと言います。

しかし、どんなにしっかりしていてもまだ家継は幼く、また病弱でもあったために日常生活のほとんどを大奥の月光院のもとで過ごしました。同じ頃、幕政について話し合うために本来は男子禁制である大奥へ通う詮房に、月光院と実は良からぬ関係を持っているのではないかという噂がありました。家継にとって詮房は、女性ばかりの大奥の中、ただ1人の男性で、しかも昼夜を問わずに自分のそばにいてくれる存在でもあり、格好の父親代わりでもあったのでしょう。家継は、詮房が時折帰城が遅くなったときなどは中奥へ続く渡り廊下のところまで出てきて、立ったまま帰りを待っていたというほど、詮房を慕っていました。

霊元上皇の皇女八十宮吉子との縁談が決まったのは、正徳5年(1715)家継7歳のときです。病弱ゆえに成人さえ危ぶまれる家継でしたが、だからこそ継嗣とする養子を迎えるためにも、体裁を整えておく必要性があったのです。当時、八十宮はまだわずか2歳でしたが、上皇は幕府との確執を解消したいと望んでおり、新井白石の説得に応じて降嫁を決めます。皇族や公卿にも多くの進物が贈られ、朝廷にも喜ばしい縁組みでした。しかし、家継が風邪をこじらせて突然薨去してしまいます。数えでわずか8歳の命でした。八十宮は婚儀すら行わないうちに家継に先立たれ、成人ののちも未婚のままで過ごしたそうです。

参考文献
『徳川将軍百話』(中江克己、河出書房新社、1998年)、「第七代徳川家継」(宮崎道生、『徳川将軍列伝』、秋田書店、1974年)、『徳川将軍家冠婚葬祭百科』(牧野洋編、別冊歴史読本、新人物往来社、1998年)
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