明顕山 祐天寺

年表

正徳元年(1711年)

祐天上人

江戸城にて猿楽を陪観

4月18日、江戸城の猿楽の催しに、祐天上人は門秀とともに招かれ陪観しました。将軍家宣は『芭蕉』、『葵上』を舞いました。門秀は紗綾10反、祐天上人は5反をたまわりました。

参考文献
『徳川実紀』7

専称院本尊、開眼供養

4月25日、豊島専称院(宝永2年「祐天上人」参照)本尊阿弥陀如来の開眼供養が、祐天上人を導師として行われました。

参考文献
「専称院の中興」(玉山成元、『THE祐天寺』14号、1990年7月)

桂昌院7回忌

桂昌院7回忌の法要が6月19日より21日まで増上寺において修され、祐天上人も参列しました。22日に家宣が参詣し、門秀は銀200枚、祐天上人は20枚、天徳寺、誓願寺ほかへは10枚ずつなど賜物がありました。

参考文献
『徳川実紀』7

祐海養母の陽華院香青、逝去

8月27日、紀州家鶴姫(延宝5年「人物」参照)お附きの局で祐海養母の陽華院が亡くなりました。法号は陽華院殿天誉香青法尼と言い、おそらく鶴姫逝去(宝永元年「寺院」参照)後に出家していたと思われます。祐天上人に深く帰依した信者でした。

参考文献
『本堂過去霊名簿』、『寺録撮要』2

祐海実母、逝去

11月20日、祐海の実母(祐天上人の妹)が逝去しました。法名は貞圓院覚誉智正大姉です。祐海は養母と実母とを続けて失ったことになります。

参考文献
『本堂過去霊名簿』、『寺録撮要』1

増上寺に晋山、大僧正に任ぜられる

12月5日、6度の出火の責任を問われての門秀の隠退に伴い、6日、祐天上人は台命により増上寺第36世住職ならびに即日、大僧正に任ぜられました。これ以後、増上寺住職は進院の日に大僧正となるのですが、その最初です。
増上寺第34世雲臥の場合は大僧正に任ぜられるのは増上寺に住してから2年2か月後、第35世門秀の場合は増上寺に住してから11か月後であり、住職になってしばらくしてから大僧正に任ぜられるのがそれまでの慣例だったのです。
大僧正の位は一宗の長に与えられるものでしたが、浄土宗では増上寺の住職が任ぜられました。
祐天上人は15日に登城し、台命住職と大僧正拝命を家宣に謝しました。

参考文献
『略記』、『実録下書』正、『開山大僧正祐天尊者行状・中興開創祐海大和尚略伝』、『徳川実紀』7、『武江年表』1

寺院

知恩院法然上人500年遠忌

正月18日、知恩院にて法然上人500年遠忌が開白され、25日に結願しました。法然上人は朝廷より東漸大師の号をたまわりました。


家宣、『法然上人行状絵図』を上覧

『法然上人行状絵図』は伏見院、後伏見院、後二条院をはじめ親王方の御筆によるもので、什宝として知恩院に納めてありました。この年、知恩院円理大僧正は所司代松平紀伊守へ、将軍にお見せすることを願い出、老中秋元但馬守の計らいでその運びとなりました。3月13日に知恩院役者九勝院が守護して出発し、21日に江戸へ到着しました。家宣は上覧して鑑賞し、伝記全部をその筆勢や画の磨滅に至るまで本物どおりに模写を命じました。画工は狩野周信ほか、詞書は柴田八郎左衛門ほかです。この模写は家宣が秘蔵していましたが、その後月光院に遣わされ、のちに祐天寺に預けられることとなります(享保6年「祐天上人」参照)。

参考文献
『寺録撮要』3、『明顕山起立略記』、『武江年表』1、『浄土宗大辞典』

出版

『傾城禁短気』

浮世草子。江島其磧(享保8年「人物」参照)著。正徳元年刊行。外題角書に「色道大全」とあり、女郎、男色などの色道を宗論・談義の趣向でまとめたものです。巻1では翫色居士が女道門を広め、衆道門を破る説法をはじめ女郎遊びの極意を説き、巻2では男色・女色の優劣論が展開されます。巻3では白人(私娼)の風俗を説き、巻4では江戸と大津の女郎の説話を紹介し、傾城の短気を慎むべきことを説きます。巻5は新町川流山瓢箪寺での新艘子の新談義で、姉女郎が新艘子に客に対する手管(人をだますやり口)を説いており、巻6は色道一遍上人が島原の近くで色道教化し、遊客の心得を説く話となっています。

参考文献
『研究資料日本古典文学』4―近世小説(大曽根章介ほか編、明治書院、1983年)、『近世文学研究事典』、『日本文化総合年表』(市古貞次ほか編、岩波書店、1990年)、『あやめぐさ』(福岡弥五郎著、郡司正勝校注、日本古典文学大系98『歌舞伎十八番集』、岩波書店、1965年)、『歌舞伎事典』

芸能

吉沢あやめ、極上上吉の位へ

女方の吉沢あやめが、歌舞伎役者として初めて極上上吉の最高位をつけられました。あやめは日常生活も女として暮らしており、その言葉を集めた『あやめぐさ』には女方として、また役者として大変含蓄のある言葉が残されています。『あやめぐさ』の有名な1節を挙げておきます。
「女方は傾城(遊女のうち、ここでは太夫を指す)さえ上手にできれば、ほかのことは皆やりやすい。なぜかと言うと、もともとが男だから、きりっとしたところは生まれつき持っているものだ。男の身で傾城の愛らしく鷹揚な様子を演じるにはよくよくの心掛けがなければならない」。


『冥土の飛脚』初演

近松門左衛門作『冥土の飛脚』はこの年3月、大坂竹本座で初演されたと言われます。飛脚宿亀屋の養子忠兵衛は新町の遊女梅川になじみます。しかし梅川に身請け話が持ち上がり、それを止めるため忠兵衛は、友人の八右衛門のところに届いた為替50両を着服して身請けの手付け金にしてしまうのでした。忠兵衛と梅川は忠兵衛の実家のある大和新口村に逃げますが、ついに捕らえられます。

参考文献
『研究資料日本古典文学』4―近世小説(大曽根章介ほか編、明治書院、1983年)、『近世文学研究事典』、『日本文化総合年表』(市古貞次ほか編、岩波書店、1990年)、『あやめぐさ』(福岡弥五郎著、郡司正勝校注、日本古典文学大系98『歌舞伎十八番集』、岩波書店、1965年)、『歌舞伎事典』
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