明顕山 祐天寺

年表

宝永07年(1710年)

祐天上人

尊統法親王、祐天名号を請い受ける

知恩院尊統法親王はこの年、江戸に2度参向されました。1回目は春、3月23日に江戸に着いて宿舎天徳寺に入られ、4月22日に帰洛の途に就かれました。このとき法親王は、家宣に勅使が新年の祝いを述べる「公卿引見」(3月25日)に参列しておられます。また、2回目は閏8月19日に江戸に到着され、10月19日に帰られています。このときは、9月14日に家宣が増上寺清揚院殿(家宣の実父)に詣でた折の法要と、10月10日の綱吉3回忌の法要に列座されたようです(法親王は綱吉の猶子)。
2回とも江戸滞在中は饗応の猿楽(能)の会に招かれるなど、多忙だったようですが、そのどちらかの機会に公務の合間を縫って、かねて道風を慕っていた伝通院の祐天上人のもとを訪ね、終日閑談し、上人の名号を請い受けたようです。法親王は紺紙金泥の名号十数幅を請い受け、帰洛ののち自ら上皇(霊元上皇)、女院(承秋門院)御所に持参して差し上げ、また親しい公卿にも差し上げたそうです(『略記』)。紺紙金泥の名号については、「元禄の末に祐天上人が紺紙金泥の名号を授与して人々の信仰を得た」(『窓のすさみ』、温知叢書、1891年)という記事もあります。
なお、法親王は翌正徳元年(1711)16歳の若さで薨じました。宝永7年の対面は、若い法親王と名僧との最初にして最後の出会いだったのです。

参考文献
『実録』正、『徳川実紀』7

江戸城にて猿楽を陪観

2月29日、祐天上人は門秀とともに江戸城の猿楽の催しの陪観を許されました。雲臥が招かれなかったのは、体調ゆえかもしれません(雲臥は8月に寂します)。この日は将軍家宣自身も『江口』、『船弁慶』を演じました。門秀と祐天上人は縮緬をたまわりました。祐天上人はこのような猿楽には9月25日にもやはり門秀とともに招かれ、家宣の『邯鄲』、『野守』などを拝見しました。このときは綸子をたまわりました。

参考文献
『徳川実紀』7

家宣子息大五郎、逝去

8月13日、家宣の第4子(第3子とも言われる)大五郎(母堂は蓮浄院)が逝去しました。法名は理岸院です。伝通院へ葬られ、16日から行われた葬儀の導師を祐天上人が勤めました。閏8月3日には三七日の法要が、12日には月忌日の法要が伝通院で営まれました。

参考文献
『伝通院志』(『浄土宗全書』19)、『徳川実紀』7

綱吉3回忌

10月10日、綱吉3回忌につき、家宣は束帯姿で寛永寺に詣でました。増上寺でも7日から法会を行い、9日に結願しました。門秀に銀200枚、祐天上人に20枚、誓願寺ほかに10枚などが納められました。

参考文献
『徳川実紀』7

野島新左衛門に金字名号を授ける

祐天上人は浅草野島新左衛門〔泰祐(元禄16年・正徳2年「祐天上人」参照)〕に金字の名号を授けました。この名号(いわき市九品寺蔵)の裏書きに、宝永7年秋に授けた旨が随従雲洞の名で記されています。のちに鎌倉大仏に多大な寄付を行う野島新左衛門と祐天上人とはこの頃から関係があったことがわかります。

参考文献
『顕誉祐天の研究―諸伝記とその行蹟―』、金字名号裏書(いわき市九品寺蔵)

変眼如来の開帳の不入りを救う

この年、祐天上人の故郷磐城郡の戸田村、変眼弥陀堂に祀られる変眼如来が江戸深川にて開帳されました。この阿弥陀如来は、礼拝する者に良いことがあるときは仏相が特に麗しく見え、避けがたい災難が降り掛かるときには涙が眼に浮かぶと言い伝えられている霊仏です。磐城では皆が尊崇する像ですが、江戸ではそのありがたさを知る者もなく、参拝者はほとんどいませんでした。戸田村の村人は開帳の出費を払える見込みが立たず、困り切っていました。祐天上人はこれを知り、毎日深川に参詣して変眼如来を礼拝しました。世の人々は祐天上人のこの様子を見てそれにならい、先を争って参詣し、浄財を喜捨しました。おかげで村人は出費を埋めることができたということです。

参考文献
『磐城志料』〔『磐城郷土史博物館・石城郡郷土大鑑』黒沢常葉、国書刊行会、1986年。郷土顕彰會発行(1928年)のものの復刻〕

歳暮に登城

12月24日、祐天上人は門秀とともに歳暮に登城しました。

参考文献
『徳川実紀』7

寺院

女巡礼の禁止

江戸時代の元禄年間(1688~1703)には京巡礼、江戸巡礼と言って、派手な衣装を身にまとい、鉦をたたいて賑やかに囃しながら往来を行く巡礼が流行しました。それらは女巡礼、あるいは念仏講と称して夜な夜な灯火を掲げて市街を徘徊していたようですが、なかには私娼も数多くいて、すべての人々が純粋な信仰心から巡礼を行っていたわけではなかったようです。
風紀の乱れと、灯火を掲げての徘徊に火事の発生を懸念した幕府は、女巡礼、もしくは念仏講と称する集団に、これらの行動をやめるよう禁令を出しました。この禁令は宝永元年(1704)に1度出されていたものでしたが、やむ気配がなかったため宝永7年には、女巡礼などを見つけた場合には町方役人により逮捕するとの禁令を、再び発布したのでした。

参考文献
『江戸編年事典』、『近世生活史年表』

出版

『礼儀類典』

徳川光圀(寛文10年「人物」参照)が霊元天皇の支持のもとに、朝廷の実用に役立てることを目的として、延長8年(930)から天文2年(1533)にわたる日記類から、恒例・臨時の朝儀についての記事を抜粋して編集したもの。全515巻。天和2年(1682)から編集に取り掛かり、貞享2年(1685)には京から安藤為実・為章兄弟を招き、水戸城内に彰考別館を新設して作業を進め、元禄14年(1701)までに草稿を完成しました。年月は明らかではありませんが、書名は霊元天皇からたまわったものです。宝永7年には、徳川綱条の序文を付した清書本を、幕府を通じて朝廷に献上しました。

参考文献
『国史大辞典』、『日本史大辞典』、『角川新版日本史辞典』(朝尾直広ほか編、角川書店、1996年)
TOP