2月24日、のちに祐天寺第3世となる祐益の、実母が逝去しました。法号は梅光院清誉妙慶大姉です。
5月26日、増上寺門秀とともに祐天上人は家宣に将軍宣下のお祝いに登城しました。大光院ら浄土宗の寺院、他宗の護持院、金地院ほかも一緒でした。
鵜飼十郎左衛門が建立した供養塔(元禄13年「祐天上人」参照)が、西信寺から伝通院へ移建されました。祐天上人への信仰の表れだと思われます。
12月24日、門秀とともに祐天上人は歳暮を祝い、将軍家宣に献上物を差し上げました。
4月、祐天上人の伝法を雲洞が記し、『伝法要偈口決』としてまとめました。
鵜飼十郎左衛門は与力で罪人の斬首を職務としていましたが、屋敷は小石川火の番町にありました。「鵜飼の先祖は首斬役で生涯に数千の首を斬ったそうだ。今の首斬役山田浅右衛門より以前のことと伝わっている」という『遊歴雑記』中巻の記述か見ると、鵜飼家では首斬役を辞め、山田浅右衛門の家に代わったようです。
山田浅右衛門がこの役に就いたのは2代吉時のとき、享保年間(1716~1735)です。当時幕府の御腰物を承る者は山野家、倉持家、松本家、それに山田家の4家でしたが、他の3家が相続者を失ったり辞任したりしたので山田家のみが勤め、首打同心も勤めるようになりました。山田浅右衛門は8世まで続き、代々の浅右衛門は罪人の辞世の句を解するために俳諧を学んだり、また5代目以降は刀剣鑑定家としても知られました。
代々の山田浅右衛門の墓は現在池袋の祥雲寺にあります。斬首した罪人のもとどりを納めた供養塔、たぶさ塚(元祥雲寺の塔頭常福寺にあったもの)もあります。山田家もやはり、斬首した人々の供養に気を遣ったのでした。
奥州米沢(山形県)、小瀬村石川勘兵衛の3男、弥五郎は宝永6年8月初旬に風邪をひきました。大した病気ではないと思っていましたがどんどん熱が上がり、喉が腫れ塞がって食事はもちろん薬も通らなくなりました。弥五郎の兄は出家して香残と言いました。香残は祐天上人に随身していたので名号を請い受け、米沢に送り、弥五郎の臨終正念のためにいただかせなさいと言いやりました。父母は喜んで家中精進して念仏し、弥五郎に名号を呑ませたところ、塞がっていた喉が開いて熱が引き、食事もできるようになって数日のうちに全快しました。勘兵衛夫婦は信仰を増し、日課念仏を増やしてともに弥五郎にも称えさせました。
貞享2年(1685)に始められた東大寺大仏殿再建事業は、公慶の全国に及ぶ勧進などにより、宝永2年(1705)に上棟式が行われました。このことを幕府に報告した公慶は、大事業をやり遂げたことに安心したかのように同年7月、58歳で入寂します。
上棟から4年後の宝永6年、大仏殿の落慶供養が行われました。奈良・鎌倉時代においての大仏殿の大きさは縦11間(19.8メートル)横7間(12.6メートル)の規模がありましたが、経済的な理由と大木の入手の困難から7間と7間の規模に縮小されての再建でした。
室鳩巣(享保17年「人物」参照)著。元禄16年(1703)冬から書き始め、何度も推敲し、宝永6年にでき上がりました。上巻に赤穂浪士事件(元禄15年「事件・風俗」参照)の始末が書かれ、下巻には四十七士の伝記が書かれています。武士は道義を守らなければならないと主張し、義士の行動を賞讃するために、本書を書きました。本書の登場により、以後義士ものが続出しました。