正月13日、祐天上人は増上寺三大僧正(門秀、了也、雲臥)とともに江戸城にて饗応を受けました。このことは閏正月26日、5月6日、7月10日、9月13日にも行われましたが、了也が4月3日に遷化したため、5月以降は他の3名が招かれたのでした。
徳川氏と浄土宗とのかかわりは増上寺随波から檀通上人へ伝授され、祐天上人へと伝えられました。綱吉は時折祐天上人に説法をさせましたが、上人は檀通上人から伝授された、家康が浄土宗に帰依した歴史を語りました。『略記』本伝遺事付録には「其の伝々の口授は既に筆記して三巻に綴り成せり。題して曰く、大樹帰敬録と」とあり、祐天上人の語った話(徳川氏と浄土宗とのかかわり)を口述筆記して『大樹帰敬録』全3巻ができたことがわかります。
正徳5年(1715)に出版された『浄宗護国篇』(正徳5年「出版・芸能」参照)は、祐天上人から直接口授を受けた観徹が良信による記録も加えて編んだ書です。観徹は増上寺孤雲室(「説明」参照)の寮主も務めた人物です。
祐天上人はこの年、『十六章仮嘆徳文偈』を作ったという記録があります。
駒込大観音は元禄10年(1697)8月29日、大和国長谷寺の本尊十一面観音を模写して造像したものです(元禄10年「祐天寺」参照)。施主は江戸小舟町の丸吉兵衛宗閑です。翌元禄11年(1698)8月17日、長谷観音供養ならびに常念仏が開闢されました。宝永5年8月、丸吉兵衛の孫浄林は、祐天上人に要請して大観音に点眼供養してもらいました。
江戸時代の檀林寺院には学寮があり、学僧達は平生分かれてその寮に住み、学んでいました。増上寺にも多くの学寮があり、承応元年(1652)頃には120余りを数えたと言います。学寮には学寮主がおり、寮生を教育、指導しました。孤雲室も学寮の1つで、孤雲が開基したためその名を取って名付けたのです。のち、文化11年(1814)、「碧雲室」と改めたと言います(文化11年「祐天寺」参照)。観徹以後、祐天上人の法類が相続するようになったと伝えられます。
持寮歴世は、孤雲―2世不分明―観徹―祐海(祐天寺第2・5世)―檀的(祐天寺准3世)―祐益(祐天寺第3世)―祐全(祐天寺第6世)―祐山―祐巖―祐誾―祐実―香堂―順良です。
浅草諏訪町、臼屋九兵衛の娘はつは、本多弾正の侍医某に仕えていましたが、ある夜寝ているうちに髪を切り乱されました。次の夜は戸締まりを堅くして寝ましたが、同じように切られました。同様のことがその後もたび重なったので、主人も狐狸のしわざかと怪しみ、藩中の剛の者を護衛に頼みました。その夜ははつをいつもどおり自分の部屋に寝かせてから、辺りを囲んで手ぐすね引いて妖怪の出現を待っていましたが、怪しいことはありませんでした。ところが夜が明けてみると、はつの髪はいつのまにか切られているのでした。親元に帰しても怪異は続き、やがて髪は残り少なくなるほど切られてしまいました。はつは嘆き悲しんでやせ衰え、両親も心配しました。幸い隣家の数珠屋理兵衛は祐天上人の石原(墨田区)時代からのお出入りであったため、この人物を頼んで娘を連れて伝通院へ行きました。祐天上人は「後世のために念仏しなさい。もし寿命がまだ尽きていないのならば助かるだろう」と諭し、襟掛けの名号1幅を与え、十念を授けました。するとその夜から怪異はふっつりとやみ、娘も気力を取り戻して全快しました。宝永7年5月のことでした。