正月12日、綱吉は増上寺三大僧正(門秀、了也、雲臥)と祐天上人を江戸城に招いて饗応しました。この年はほかに2月9日、3月18日、4月27日、6月6日、7月3日、9月13日(月見の宴)、10月10日、11月晦日、12月10日にも同様の饗応が行われました。
2月24日、増上寺三大僧正(門秀、了也、雲臥)や、大光院、護持院、護国寺、金地院、進休庵、霊巌寺、霊山寺、幡随院長老たち16人が江戸城にて浄土法問を行いました。題は『阿弥陀経』の「一心不乱」についてでした。祐天上人も参加し、終了後は特に「上意により、また伝通院説法いたすべし」として説法を仰せ付けられました。
『実録』作者はこのときの問答の様子を、列席者から直接聞いたとしています。権力者と問答する場合、ほかの多くの僧侶が権力におもねて仏説を曲げたりすることもあるのに、祐天上人の様子はあくまで法を尊び、相手によって言葉を左右することはなかったということです。
このとき祐天上人の説法を御簾の内で聞いていた綱吉の側室、お伝の方(元禄5年「人物」参照)は説法のありがたさに感動し、説法する上人の姿を像にしたいと思いました。そこで自ら祐天上人の説法される像を造り、長悦の像と名付けました。祐海の覚えによると、この像には紫衣と緋衣に袈裟、白綸子や白羽二重の綿入れに赤いしとねまで作られました。3月の雛祭りのときに雛壇に飾り、ごちそうをしたそうです。のちにこの像は陽華院香青(正徳元年「祐天上人」参照)へ下され、やがて祐海に下されました(正徳2年「祐天上人」参照)。
9月28日、7月に誕生したばかりの家宣の子息、家千代(母は右近の方、法心院)が亡くなりました。智幻院と号し、伝通院に葬られました。導師は祐天上人が勤めました。家宣は祐天上人に深く帰依していました。智幻院を伝通院に葬ったのも、またこの年、早く亡くなった自分の兄弟の清寿院(幼名は午松、綱重の子息。母は紅玉院)を天徳寺より、清華院(幼名などは不明)を常泉寺より、それぞれ伝通院に改葬したのも祐天上人への帰依からのようです。
江戸西久保新下谷町に、七助という貧しい日傭の男が住んでいました。この年の8月に母をなくし、自分も病に伏し食欲がありませんでしたが、しきりに鮮魚が食べたくなり、銭がないため祐天上人の名号を売って魚を買い、思う存分食べました。ところがそのあと腹が張って太鼓のようになり、七転八倒して気絶してしまいました。妻もなく介抱する者もいないので、隣近所の者が集まって気付けの薬など与えていると、やっと息を吹き返して言うことには、「たった今、どこともわからない真っ暗なところに行ってきました。心細く思いながら歩いていくと、明るい道に出ましたが、恐ろしい人に捕まってしまいました。『まだここに来る者ではないのだが、名号を売って魚を食べた罪によって召し寄せたのだ。ついでに母のいるところも見ていけ』。母は火焔の中に燃え杭のようになっていました。恐ろしさも悲しさも限りないところへ、また1人の人が来て、『もう1度娑婆に帰って良い』と言ったので蘇ったのです」。
そののち病気は重くなり、うわ言を言いながら息絶えました。宝永5年(1708)正月5日のことでした。
11月23日に起こった宝永の富士噴火は、江戸の町にも多大な影響を与えました。空から砂が降り続くという現象は、綱吉にとってもかなりの衝撃的な事件であったらしく、隆光などに祈祷を申し付けたり、吉凶を問いただしたりしています。これを受けて、隆光は早速24日から、疫病を取り除き延寿を願う不動法・千手法の行を始めました。