1月27日、祐天上人は増上寺三大僧正(門秀、了也、雲臥)とともに饗応を受けました。このことはほかに3月25日、4月晦日、6月3日、27日、8月18日、9月13日(能の催しあり)、12月10日にありました。常にこの4人(従僧があずかることもある)が饗応を受けており、もうこの頃には祐天上人は増上寺の大僧正と同格に扱われていたのです。
祐天上人は広島藩御用人へ頼み、尾道正授院で修行中の千日念仏(元禄15年「祐天上人」参照)を以後は常念仏とするよう手配しました。正授院へは3月18日、その旨が伝えられました。また8月20日、祐天上人を通じて徳川家歴代将軍の位牌が正授院に納められました。尊牌を送るという内容の祐天上人の手紙が正授院に残っています。
6月22日、綱吉は増上寺に詣でました。17日から行われていた桂昌院の万部経法要が21日に結願したからです。綱吉は台徳院殿(秀忠)廟と桂昌院廟へ参拝し、四箇法要(唄、散華、梵音、錫杖の4種の形式を備えた法要)が行われました。祐天上人も法要に列席し、銀30枚をたまわりました。
10月12日、善久院で立像石地蔵菩薩を建立しました。善久院は祐天寺の前身の寺院ですが、この地蔵菩薩の場所はのちに祐天上人廟所入口となります。(享保9年「祐天寺」参照)
この年と思われますが、法問の席で祐天上人が将軍綱吉の質問に答えた記録があります。
綱吉はいくつかの質問を出しました。その1つは、「祐天上人の書く名号には利益があるともっぱらの評判だが、その実否はどうか」ということでした。これに対し祐天上人は、「利益は自分(祐天)の力ではなく、名号を受けた信者の信力によるのです」と答えました。また、「天台真言宗等は鎮護国家の祈祷を行うのに、浄土宗はなぜ行わないのか」という問いには、「密教の手法や法華経の功徳も万徳所帰の名号の六字の中に収まっているから、別に祈祷を修して護国攘災の法を求める必要はありません」と答えました。さらに、「家康が戦地において奉供していた阿弥陀如来の像が兵士となって力戦したとの話が伝わっているが、くわしく貴僧の説を聞きたい」との仰せに対しては、一朝一夕には語れないとしながらも、「今日ある十八檀林において英俊を育成しているが、その十八とは、弥陀の十八願に因むものでそれは、松平の松が十八公を表していることと同じで、国運と法運ともに極まりないことを祝しているのです」と答えました。綱吉も、居並ぶ諸賢も祐天上人の説法を賞嘆し、上人は時服4をたまわりました。
祐天上人が伝通院に在住しているとき、夢に伝通院開山聖冏にまみえたと伝えられています。
聖冏は伝通院以外にも飯沼弘経寺を開き、また火事にあった瓜連常福寺の再建を行うなど、大きな功績があり、また多くの研究著書を著しました。生まれつき額に繊月(三日月)があったと言い、暗夜でもそこから光を発して読書ができたと伝えられています。
皇室からの帰依も篤い知恩院は、まず創建後の文暦元年(1234)に四条天皇から「華頂山」「知恩教院」「大谷寺」の3つの勅額をたまわりました。これらはのちに兵乱の火災により失われましたが、享禄3年(1530)に御影堂(現在の勢至堂)の再建がなると、再び当時の天皇、後奈良天皇が「知恩教院」「大谷寺」の勅額を下賜されたのです。「知恩教院」の額は御影堂に掛けられましたが、「大谷寺」の額は宝永3年になって阿弥陀堂に掲げられました。この阿弥陀堂は、もとは山上にあったものを宝永7年(1710)に現在の地、御影堂の西に移動しました。
浄土宗宗祖法然上人の門弟である聖光は、のちに二祖正宗国師と讃えられた僧侶でした。その聖光のあとを継いだのが、三祖と称される良忠です。良忠の門弟たちは、良忠没後に教義の解釈の違いから6派に分かれます。名越派はそのうちの1派で、尊観(良弁)を祖としました。名越派の事実上の創始者とされる名越派第3世良山が、その布教の本拠地を磐城郡に据えたために、名越派は磐城を中心に活動していくようになります。
江戸時代には、浄土宗の教義は良忠の実子と言われる良暁を祖とする白旗派が主流となっていましたが、名越派の奥州山崎(福島県)専称寺と下野国大澤(栃木県)円通寺は、僧侶の教育機関である檀林として位置付けられ、同じ浄土宗の関東十八檀林とは別の扱いを受けていました。
最も際立った違いを見せたのが住職の選出方法で、宝永3年に七箇条のうちの1つとして定められたものです。十八檀林においては、香衣檀林は基本的に入札制で、紫衣檀林は席順により選ばれ幕府が任命します。しかし、名越派檀林は、近隣の末寺2か寺が増上寺に赴いて後任住職の選出を願い出ることとされています。そして、選出された住職は増上寺が任命することになっていました。
ほかには、住職以外の者が金襴衣をまとうことの禁止や、檀林住職交代のときには、什物などがなくならないように近隣の末寺がよく調査のうえ新住職に受け渡すことなど、細かな面についての申し渡しもありました。
俳文集。森川許六(「人物」参照)編。宝永3年刊行。初めは『本朝文選』として刊行されましたが、内容の一部を訂正して『風俗文選』と改題されました。芭蕉・許六・去来ら219人の文章を所収した俳文集で、『猿蓑』(元禄4年「出版」参照)に俳文集を付すことを断念した芭蕉の遺志を許六が継いで、刊行したものです。所収数の多い作者は許六です。集中には、芭蕉の「幻住庵の記」や「許六離別詞」(後年「柴門辞」と改題)などが収められています。許六作「旅ノ賦」には「旅は風雅の花、風雅は過客の魂。西行・宗祇の見残しは、皆俳諧の情なり」とあります。旅は俳諧の花で、俳諧は旅人の魂です。西行・宗祇が詠み残したものは、皆俳諧の真情なのです、と旅を捉えました。