明顕山 祐天寺

年表

宝永3年(1706年)

祐天上人

将軍綱吉の饗応

1月27日、祐天上人は増上寺三大僧正(門秀、了也、雲臥)とともに饗応を受けました。このことはほかに3月25日、4月晦日、6月3日、27日、8月18日、9月13日(能の催しあり)、12月10日にありました。常にこの4人(従僧があずかることもある)が饗応を受けており、もうこの頃には祐天上人は増上寺の大僧正と同格に扱われていたのです。

参考文献
『浄土宗大年表』、『徳川実紀』6

尾道正授院常念仏

祐天上人は広島藩御用人へ頼み、尾道正授院で修行中の千日念仏(元禄15年「祐天上人」参照)を以後は常念仏とするよう手配しました。正授院へは3月18日、その旨が伝えられました。また8月20日、祐天上人を通じて徳川家歴代将軍の位牌が正授院に納められました。尊牌を送るという内容の祐天上人の手紙が正授院に残っています。

参考文献
『覚書』(正授院第6世良頓、享保2年筆、尾道正授院蔵)、「祐天上人書状」(正授院蔵)

綱吉、桂昌院霊牌所に参詣

6月22日、綱吉は増上寺に詣でました。17日から行われていた桂昌院の万部経法要が21日に結願したからです。綱吉は台徳院殿(秀忠)廟と桂昌院廟へ参拝し、四箇法要(唄、散華、梵音、錫杖の4種の形式を備えた法要)が行われました。祐天上人も法要に列席し、銀30枚をたまわりました。

参考文献
『浄土宗大年表』、『徳川実紀』6

善久院で石地蔵尊を建立

10月12日、善久院で石地蔵菩薩立像を建立しました。善久院は祐天寺の前身の寺院ですが、この地蔵菩薩の場所はのちに祐天上人廟所入口となります。(享保9年「祐天寺」参照)

参考文献
『寺録撮要』2

松平氏と十八檀林の問答

この年と思われますが、法問の席で祐天上人が将軍綱吉の質問に答えた記録があります。
綱吉はいくつかの質問を出しました。その1つは、「祐天上人の書く名号には利益があるともっぱらの評判だが、その実否はどうか」ということでした。これに対し祐天上人は、「利益は自分(祐天)の力ではなく、名号を受けた信者の信力によるのです」と答えました。また、「天台真言宗等は鎮護国家の祈祷を行うのに、浄土宗はなぜ行わないのか」という問いには、「密教の手法や法華経の功徳も万徳所帰の名号の六字の中に収まっているから、別に祈祷を修して護国攘災の法を求める必要はありません」と答えました。さらに、「家康が戦地において奉供していた阿弥陀如来の像が兵士となって力戦したとの話が伝わっているが、くわしく貴僧の説を聞きたい」との仰せに対しては、一朝一夕には語れないとしながらも、「今日ある十八檀林において英俊を育成しているが、その十八とは、弥陀の十八願に因むものでそれは、松平の松が十八公を表していることと同じで、国運と法運ともに極まりないことを祝しているのです」と答えました。綱吉も、居並ぶ諸賢も祐天上人の説法を賞嘆し、上人は時服4をたまわりました。

参考文献
『顕誉大僧正伝略記』、『徳川実紀』6

伝説

夢に了誉聖冏上人にまみえる

祐天上人が伝通院に在住しているとき、夢に伝通院開山聖冏にまみえたと伝えられています。
聖冏は伝通院以外にも飯沼弘経寺を開き、また火事にあった瓜連常福寺の再建を行うなど、大きな功績があり、また多くの研究著書を著しました。生まれつき額に繊月(三日月)があったと言い、暗夜でもそこから光を発して読書ができたと伝えられています。

参考文献
『了誉上人伝記』(版本、国会図書館蔵)、『無量山傳通院壽経寺―開山了誉上人傳・中興正誉上人傳―』(村上博了、伝通院、1988年)
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