明顕山 祐天寺

年表

宝永01年(1704年)

祐天上人

善光寺名号額

この年の初春、信濃善光寺に1つの名号額が奉納されました。願主は善光寺末寺、善養寺(山梨県落合村)の開山、厭誉欣心という僧で、「六八往詣結願成就」したことを記念して奉納した旨が書かれています。裏に多くの村人の名もあり、ともに48回の善光寺詣でを果たし、結願として祐天上人に名号を書いてもらったと思われます。

参考文献
『顕誉祐天の研究―諸伝記とその行蹟―』

檀的父、逝去

5月19日、檀的(祐天寺准3世)の父、新妻冨右衛門重春が逝去しました。法名は教誉浄頓信士です。重春は祐天上人の妹の4男で、祐海の兄にあたります。

参考文献
『本堂過去霊名簿』、『寺録撮要』1

伝通院に転住

11月、祐天上人は江戸小石川の無量山伝通院に晋山しました。伝通院は2枚紫衣を許された(「寛永14年の浄土宗」参照)由緒ある寺院です。そして12月28日、将軍綱吉にお礼を述べました。ここに住している間に祐天上人が譜脈を伝授した弟子からは、大玄(のちの増上寺第45世)をはじめ高僧が輩出しました。

参考文献
『浄土宗大年表』、『縁山志』10(『浄土宗全書』19)

説明

無量山伝通院

江戸小石川にあり、関東十八檀林の1つ。無量山寿経寺伝通院と言います。徳川家康の生母お大の方の菩提寺とされました。応永22年(1415)了誉聖冏(増上寺開山聖聡の師)の開山です。お大の方は享禄元年(1528)三河刈屋城主水野忠政の次女に生まれました。75歳の寿命を全うして伏見城で寂したのち、知恩院で葬儀が営まれました。遺骸は江戸に送られて寿経寺に葬られました。これから、お大の方の法号に因んで寿経寺の院号を伝通院としたのです。伝通院は慶長18年(1613)に十八檀林制となるにあたり、2枚紫衣の大壇林とされました。
お大の方の実家である水野家は、家康の上意で7万石の領主として松本に封じられ、菩提寺春了寺を建立しました。
春了寺の末寺に、祐天上人本地身地蔵菩薩像(寛政9年「祐天寺」参照)が安置されていた光明院があります。

参考文献
『無量山傳通院壽經寺』(村上博了、伝通院、1988年)、『浄土宗大辞典』

伝説

徳利小僧を教化

伝通院には七不思議というものがありましたが、その1つの徳利小僧とは、毎夜八つ時(午後10時)頃に12歳ほどの小僧が徳利をたたいて「ここかしら。ここかしら」と言い歩くというものでした。祐天上人は住職のとき、魂魄が流転生死の中に迷うとは哀れなことだと思われ、ある夜、お附きの僧にも知らせずこっそりと方丈(住職の居室)から出て開山堂の厨子の下にうずくまって徳利小僧の現れるのを待っていました。
やがてかの小僧が「ここかしら。ここかしら」と言いながらやってきたとき、祐天上人は「小僧よ、どこかは知れないだろう。私にもわからない。ただ念仏して阿弥陀如来にお尋ねし、観世音菩薩、勢至菩薩に伺うことが良いのだよ」とお答えなさいました。小僧は少し考えていましたが、「そうだなあ。開山上人でさえおわかりにならないものを私ごときがわかるわけはないなあ」と言って消え失せ、それからは現れることはありませんでした。

参考文献
『檀林小石川伝通院志』(『浄土宗全書』19)

寺院

門秀、増上寺に晋山

11月27日、増上寺雲臥が老齢のため退職し、代わって29日に伝通院門秀が増上寺住職となりました。これによって飯沼弘経寺祐天上人が伝通院に晋山するのです(「祐天上人」参照)。

鶴姫、逝去

4月12日、紀州家綱教室、鶴姫(延宝5年「人物」参照)が逝去しました。明信院と号し、増上寺に葬られました。綱吉はただ1人の子を失い、また鶴姫には子供がなかったため、自分の血筋による将軍の後継者を立てる見込みがなくなりました。このため12月5日、甲府中納言綱豊を養子とし、後継者に定めました。綱豊は、家宣と改名しました。

家宣養女政姫、逝去

7月1日、綱豊(のちの将軍家宣)養女、政姫が逝去しました。正室煕子(照姫、のちの天英院。寛保元年「人物」参照)が2人の子を次々と失ったため、その心を慰めるために煕子の実家である京、近衛家から養女に来た姫でした。

参考文献
『浄土宗大年表』、『徳川幕府家譜』(『徳川諸家系譜』1)

出版

『三冊子』

俳諧論書。服部土芳(「人物」参照)著。元禄15年(1702)から宝永元年の間に成立。「しろさうし」「あかさうし」「わすれ水」という3冊から成ります。「しろさうし」では蕉風俳諧(松尾芭蕉および芭蕉一門の俳諧)の準拠すべき形式や、芭蕉が俳諧の誠(俳諧の真の価値)を得たことなどが説かれています。「あかさうし」では俳諧の神髄が説かれています。また、師の風雅(俳諧)には、いつまでも価値の変わらないものと変わるものとがあるが、その根本は1つで、それこそ風雅の誠であると説きました。これが有名な不易流行論です。「わすれ水」では細かな事柄が書かれています。本書は、幼いときから芭蕉と親しんだ土芳が、芭蕉晩年の教えを記録した俳諧論書として貴重なものとなっています。


芸能

初代団十郎の刺殺と2代目の襲名

2月、初代市川団十郎(元禄6年「人物」参照)は市村座の『移徒十二段』に出演中、同じ芝居に出ていた生島半六に楽屋で刺され、殺されました。怨恨の理由は、女性問題であるとか、半六の実子善次郎に対して団十郎が親切に扱わなかったからであるとか諸説があり、定かでありません。団十郎は享年45歳。増上寺塔頭(小院)常照院に葬られました。長男の海老蔵(元禄元年「芸能」・享保6年「人物」参照)は17歳でしたが、すぐ7月に山村座で2代目市川団十郎を襲名しました。

参考文献
『芭蕉百名言』(山下一海、富士見書房、1996年)、『日本古典文学大辞典』、「芭蕉俳論事典」(尾形仂・堀切実、『別冊國文學』第8号―芭蕉必携、1980年12月、學燈社)、『市川団十郎』(西山松之助、人物叢書、吉川弘文館、1960年)
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