この年の初春、信濃善光寺に1つの名号額が奉納されました。願主は善光寺末寺、善養寺(山梨県落合村)の開山、厭誉欣心という僧で、「六八往詣結願成就」したことを記念して奉納した旨が書かれています。裏に多くの村人の名もあり、ともに48回の善光寺詣でを果たし、結願として祐天上人に名号を書いてもらったと思われます。
5月19日、檀的(祐天寺准3世)の父、新妻冨右衛門重春が逝去しました。
法名は教誉浄頓信士です。重春は祐天上人の妹の4男で、祐海の兄にあたります。
11月、祐天上人は江戸小石川の無量山伝通院に晋山しました。伝通院は2枚紫衣を許された由緒ある寺院です。そして12月28日、将軍綱吉にお礼を述べました。ここに住している間に祐天上人が譜脈を伝授した弟子からは、大玄(のちの増上寺第45世)をはじめ高僧が輩出しました。
江戸小石川にあり、関東十八檀林の1つ。無量山寿経寺伝通院と言います。徳川家康の生母お大の方の菩提寺とされました。応永22年(1415)了誉聖冏(増上寺開山聖聡の師)の開山です。お大の方は享禄元年(1528)三河刈屋城主水野忠政の次女に生まれました。75歳の寿命を全うして伏見城で寂したのち、知恩院で葬儀が営まれました。遺骸は江戸に送られて寿経寺に葬られました。これから、お大の方の法号に因んで寿経寺の院号を伝通院としたのです。伝通院は慶長18年(1613)に十八檀林制となるにあたり、2枚紫衣の大壇林とされました。
お大の方の実家である水野家は、家康の上意で7万石の領主として松本に封じられ、菩提寺春了寺を建立しました。
春了寺の末寺に、祐天上人本地身地蔵菩薩像(寛政9年「祐天寺」参照)が安置されていた光明院があります。
伝通院には七不思議というものがありましたが、その1つの徳利小僧とは、毎夜八つ時(午後10時)頃に12歳ほどの小僧が徳利をたたいて「ここかしら。ここかしら」と言い歩くというものでした。祐天上人は住職のとき、魂魄が流転生死の中に迷うとは哀れなことだと思われ、ある夜、お附きの僧にも知らせずこっそりと方丈(住職の居室)から出て開山堂の厨子の下にうずくまって徳利小僧の現れるのを待っていました。
やがてかの小僧が「ここかしら。ここかしら」と言いながらやってきたとき、祐天上人は「小僧よ、どこかは知れないだろう。私にもわからない。ただ念仏して阿弥陀如来にお尋ねし、観世音菩薩、勢至菩薩に伺うことが良いのだよ」とお答えなさいました。小僧は少し考えていましたが、「そうだなあ。開山上人でさえおわかりにならないものを私ごときがわかるわけはないなあ」と言って消え失せ、それからは現れることはありませんでした。
11月27日、増上寺雲臥が老齢のため退職し、代わって29日に伝通院門秀が増上寺住職となりました。これによって飯沼弘経寺祐天上人が伝通院に晋山するのです(「祐天上人」参照)。
4月12日、紀州家綱教室、鶴姫(延宝5年「人物」参照)が逝去しました。明信院と号し、増上寺に葬られました。綱吉はただ1人の子を失い、また鶴姫には子供がなかったため、自分の血筋による将軍の後継者を立てる見込みがなくなりました。このため12月5日、甲府中納言綱豊を養子とし、後継者に定めました。綱豊は、家宣と改名しました。