豊島専称院(現在は板橋区仲町に移転)は豪族豊島氏によって室町時代に開創されましたが、豊島氏滅亡後は村の地蔵堂として伝わってきました。専称院境内に建つ長夜燈の銘文によると、宝永2年、豊島に住む臼倉四郎左衛門が祐天上人の教えにより堂宇を再興して、専称院という念仏道場としたと言います(『武江年表』には宝永4年とある)。『専称院縁起』によると、四郎左衛門は祐天上人牛島時代からの信者だったようです。『専称院縁起』を紹介した専称院第28世玉山成元師の文を引用しておきます。
「宝永二年、臼倉夫妻は祐天上人にあい、村中のものに十念を授けてほしいと要請した。そこで祐天上人は、臼倉家の隣地にある地蔵堂で村人に十念を授けた後、この堂を寺にとりたて、念仏弘通の助けにしたいといったので、近隣の人々は大変よろこび、お互いに浄財を持ちより、一年あまりで寺を建立した。宝永四年正月二十七日、祐天上人は多くの僧侶を引きつれて入仏供養をし、亀嶋山地蔵寺専称院と称号し、小石川伝通院の末寺に加えたという。コレは事実と思われる。しかしこのときの本尊はまだ地蔵菩薩であった。
『専称院財産目録』によると、本尊阿弥陀如来は、宝永八年四月二十五日に、駒込浅嘉町の信徒が寄進し、祐天上人が開眼を行ったとある。(後略)」
また『遊歴雑記』には、そのほか専称院に安置する訶羅多山地蔵尊、祐天上人像(宝永2年69歳像)、閻魔王像が祐天上人開眼であり、上人寄進の百萬遍執行用の数珠もあると記されています。
この頃、祐天上人は将軍や大奥の信仰を集めていましたし、名号による冥加金などにより多くの寺院の復興を行ったようです。鎌倉大仏やこの専称院はその例と言えます。
3月29日、増上寺三大僧正(門秀、了也、雲臥)、伝通院祐天上人たちは江戸城に招かれて饗応を受けました。祐天上人が饗応にあずかったのはほかに、5月10日、12月27日が数えられます。12月27日には囃子の催しもありました。
6月22日、桂昌院が逝去されました。祐天上人は朝五つ半時(午前5時頃)、増上寺前大僧正了也とともに江戸城三の丸、桂昌院の臨終の枕辺へ呼ばれ、十念をお授けしました。桂昌院の呼吸に合わせて祐天上人が念仏を称え、桂昌院は少しの苦しみもなく四つ時(午前8時頃)逝去されました。85歳でした。
桂昌院が病気になったとき(5月30日)からずっと付き添っていた隆光は別として、浄土宗側の僧侶として前大僧正了也と並んで祐天上人が桂昌院の信仰を受けていたことがわかります。
翌23日には増上寺で盛大な葬儀が執り行われました。導師は了也。祐天上人も参列しました。
祐海はこの年『愚蒙安心章』を執筆しました(奥書は10月15日に記す)。日頃祐天上人に随従し、人々に教化している安心の趣を著し、人の心行の一助となることを願ってのことです。数えで弱冠24歳でした(宝暦9年「祐天寺」参照)。
この年、祐海は布薩戒を得ました。布薩戒とは戒法の一種で、浄土宗の最深秘の伝法として江戸時代に伝承しました。祐海の得た許可証が祐天寺に現存しています。
この年、祐天上人は松坂宝泉寺を訪れたという記録が、宝泉寺の資料に記されています。宝泉寺には弘化3年(1846)建立の祐天名号石があり(弘化3年「祐天寺」参照)、祐天上人像も安置されています。
閏4月14日、清揚院殿(甲府、徳川綱重)を伝通院から増上寺に改葬することになりました。清揚院殿は3代将軍家光の子息であり、宝永元年(1706)に5代将軍綱吉の養子となった徳川綱豊、のちの6代将軍家宣の実父です。未来の将軍の父君として、将軍家の菩提寺へ改葬されたのかもしれません。また、幕府は増上寺に霊屋を造営し寺領を寄進しました。