11月、東国で地震があり、鎌倉の大仏(阿弥陀如来)の台座は崩れ、危険な状態になりました。
のちに祐天上人はこれを案じて大仏の台座を修理し、また大仏の亀裂を銅板で覆いました。しかし堂社の建立まではできず残念に思っていたところ、江戸浅草のミノヤ野嶋新左衛門(法名は高徳院深蓮社法誉大異泰祐)が、妻の浄泉院尼の勧めで祐天上人に資金の喜捨を申し出、そのおかげで正徳2年(1712)正月12日に堂社も建ったのです。同年同月15日、常念仏も始められました(正徳2年・享保元年「祐天上人」参照)。祐天上人は新左衛門を讃え、その法名の高徳院を寺号としました。祐天上人の働きで浄土宗に加えられました。大異山高徳院清浄泉寺では祐天上人を中興開山と位置付けています。
11月、東国に大地震がありました。この地震で小石川から火事まで起こって横山町に移ってきました。皆逃げ惑い、親を失い、子に離れて泣き叫ぶ声が巷にあふれました。長い病気で弱っていた木綿屋仁兵衛の妻は杖に縋ってよろよろと逃げ、両国橋までたどり着きましたが、群衆の中に入り込んで進むも引くもかなわなくなりました。今はこれまでと覚悟を決めて念仏していましたが、足を踏みはずして川に落ちてしまいました。泳ぎを知りませんでしたが不思議なことに沈みもせず、いつの間にか本所の河岸まで流されて命に別状ありませんでした。常に信じる祐天上人の名号のおかげかと開き見ると、懐中物もすべて水に浸ったのに名号は少しも濡れていませんでした。ありがたいことだとますます信仰を深め、念仏を熱心に称え、ほどなく正念往生を遂げたということです。