明顕山 祐天寺

年表

元禄16年(1703年)

祐天上人

鎌倉大仏(大異山高徳院清浄泉寺)傾く

11月、東国で地震があり、鎌倉の大仏(阿弥陀如来)の台座は崩れ、危険な状態になりました。

のちに祐天上人はこれを案じて大仏の台座を修理し、また大仏の亀裂を銅板で覆いました。しかし堂社の建立まではできず残念に思っていたところ、江戸浅草のミノヤ野嶋新左衛門(法名は高徳院深蓮社法誉大異泰祐)が、妻の浄泉院尼の勧めで祐天上人に資金の喜捨を申し出、そのおかげで正徳2年(1712)正月12日に堂社も建ったのです。同年同月15日、常念仏も始められました(正徳2年・享保元年「祐天上人」参照)。祐天上人は新左衛門を讃え、その法名の高徳院を寺号としました。祐天上人の働きで浄土宗に加えられました。大異山高徳院清浄泉寺では祐天上人を中興開山と位置付けています。

参考文献
『本堂過去霊名簿』、『檀通上人御腹内書附』、「鎌倉大仏様の復興」(玉山成元、『THE祐天寺』6号、1988年7月)、『浄土宗大辞典』、『鎌倉市史』社寺編・史料編2(鎌倉市史編纂委員会、吉川弘文館、1959年・1987年)、『顕誉祐天の研究―諸伝記とその行蹟―』

伝説

木綿屋仁兵衛の妻、万死に一生を得る

11月、東国に大地震がありました。この地震で小石川から火事まで起こって横山町に移ってきました。皆逃げ惑い、親を失い、子に離れて泣き叫ぶ声が巷にあふれました。長い病気で弱っていた木綿屋仁兵衛の妻は杖に縋ってよろよろと逃げ、両国橋までたどり着きましたが、群衆の中に入り込んで進むも引くもかなわなくなりました。今はこれまでと覚悟を決めて念仏していましたが、足を踏みはずして川に落ちてしまいました。泳ぎを知りませんでしたが不思議なことに沈みもせず、いつの間にか本所の河岸まで流されて命に別状ありませんでした。常に信じる祐天上人の名号のおかげかと開き見ると、懐中物もすべて水に浸ったのに名号は少しも濡れていませんでした。ありがたいことだとますます信仰を深め、念仏を熱心に称え、ほどなく正念往生を遂げたということです。

参考文献
『祐天大僧正利益記』中、『遊歴雑記』初編1(十方庵敬順、東洋文庫、平凡社、1989年)
TOP