3月29日、隆光と増上寺隠居了也、増上寺雲臥とともに飯沼弘経寺祐天上人は、従一位に叙せられた桂昌院のご機嫌伺いに江戸城三の丸に登城しました。隆光が下総国樹林寺本尊の夕顔観音を持参してご覧に入れると、桂昌院は拝礼されました。
下総国葛西の夕顔観音には、江戸や近在からおびただしい数の人々が参拝しました。江戸所々の寺院でも5、7日ずつ出開帳を行ったようです。隆光は江戸出開帳の折に観音を江戸城へ持っていったのでしょう。
5月2日、桂昌院は増上寺に参詣し、法問聴聞のあと安国殿に参詣され、祐天上人に縁起講談を仰せ付けられました。おそらく、徳川家康念持仏の黒本尊(「説明」参照)の縁起を語られたものでしょう。
9月6日、将軍綱吉の御前法問がありました。題は『無量寿経』の「爾時世尊諸根悦豫姿色清浄光顔巍巍乃至殊妙如今」についてです。この日雲臥は大僧正に任ぜられて、銀200枚と時服をたまわり、また了也は銀100枚と時服をたまわりました。祐天上人は時服3をたまわりました。
なお、この御前法問は増上寺で行われたのですが、祐天上人も江戸にのぼり、宿所に滞在していました。その宿所に、古くからの信者である森田直往(享保10年「説明」参照)はお茶を届けています。直往の心尽くしに祐天上人が感謝し、したためた礼状が、松坂西方寺に残っています。
棚倉(福島県白河郡棚倉町)城主内藤弌信は元禄15年(1702)9月、娘の追善供養のために、菩提寺蓮家寺に西国巡礼三十三番札所の観音像を写して彫刻し、観音菩薩堂を建立して祀りました。このときの観世音菩薩像開眼の導師が祐天上人でした。
また、蓮家寺境内にある常念仏堂にある阿弥陀如来像も、祐天上人の寄進とされています。その由来は、弌信の江戸藩邸の家臣脇田次郎左衛門正明が元禄5年(1692)霊夢を感得し、祐天上人所持の善光寺前立如来の写しを請い受け常念仏の本尊とするようにというお告げを受け、翌日祐天上人の庵室を訪れたところ、祐天上人が像を寄進したというものです。蓮家寺常念仏は元禄5年10月15日開闢され、常念仏堂は元禄6年(1693)に建てられました。
三好雲光院(江東区)にはこの頃に建立された祐天上人名号石塔があります。正面および左側面には、
大巌寺十五世 万人講中
南無阿弥陀仏
祐天(花押) 為二世安楽
とあり、背面には
元禄十五壬午歳
龍徳山雲光院第七世信蓮社團誉
南無阿弥陀仏 法水(花押)
□□士頓誉妙中女願主教誉妙頓尼
三月末日
とあります。祐天上人が大巌寺に住していたのは元禄12年(1699)から同13年(1700)ですから、その期間に上人が書かれた名号を石塔に彫ったと思われます。
祐天上人は弘経寺で導師となり、千日念仏を開闢しました。それを相続する形で尾道正授院(宝永3年・正徳3年「祐天上人」参照)で尊誉了般(のちの増上寺第42世)が2月25日に千日念仏を開闢しました。了般は正授院で出家した縁で導師を勤めたと思われます。また、当時の正授院住職諦誉良頓が江戸での修学期間に祐天上人にも指南を受けた縁により、祐天上人に開闢を依頼したのです。千日念仏の継続許可を得るにあたっては、了般は祐天上人の使僧として広島正清院に頼みましたが許可がなく、宝永元年(1704)10月15日にいったん千日念仏は終わりになりました。
良頓はまた願いを出し、同年10月16日より宝永4年(1707)6月まで千日念仏執行の許可を得て行いました。宝永3年(1706)3月18日、代官青木弥太夫より仰せ渡しのあったところによると、正授院念仏は江戸伝通院祐天上人より広島藩御用人衆中へ依頼があったため、これから常念仏にするよう仰せ渡しがありました。
徳川家康の念持仏。恵心(源信)作と言われる2尺6寸(約80センチメートル)の阿弥陀如来像。三河明眼寺にありましたが家康の懇望により岡崎城に移され、以後念持仏として崇敬されました。戦乱の中で武者に変じて家康や家臣を護ったなどの奇瑞が伝えられます。文禄元年(1592)家康が江戸に迎え、市ヶ谷に祀りました。戦乱で夫を失った未亡人で尼となった者も多く仕えていました。家康没後、寛永7年(1630)増上寺に安置されました。本尊に並べると阿弥陀如来像が2つになるというので山門外の松林の中にまつられていました〔のち寛延2年(1749)造殿して遷座しました。護国殿に遷座したのは宝暦11年(1761)です〕。長い間の香煙により金色が黒色に変じたため、黒本尊と呼ばれたようです。現在は芝増上寺の安国殿に安置されています。