明顕山 祐天寺

年表

元禄13年(1700年)

祐天上人

飯沼弘経寺へ転住

祐天上人は、9月14日に両手印を沢春に授け、生実(千葉県)大巌寺から飯沼弘経寺第30世住職として転住しました。前住職の雲臥が増上寺の住職になったので、そのあとを承けて紫衣檀林の住持となったわけです。かつては師の檀通上人に随従して、この寺院にいたことがありましたが、そののち師に附いて鎌倉光明寺へ移って〔延宝2年(1674)〕から26年が経っていました。『檀林飯沼弘経寺志』には、境内愛宕権現の本地尊は祐天上人作、相善権現も本地十一面観音石の像も祐天上人の彫刻と記されていますが定かではありません。
また、弘経寺末の如来山霊仙寺は第47世存誉智廓の代、祐天上人の取り次ぎで鶴姫(延宝5年「人物」参照)所持の御守り本尊阿弥陀三尊厨子入りと打敷幡2流を拝領しています。
飯沼弘経寺の参道に残る名号桜は、「祐天上人の六字の名号を書れしを賜ばかりて、其報に奉れる桜なりといへり」(『相馬日記』)と言われるものです。

参考文献
「檀林飯沼弘経寺志」(『浄土宗全書』19)、『相馬日記』(高田與清、房総叢書、房総叢書刊行会、1914年)、『大巌寺文書』(宇高良哲編著、『関東浄土宗檀林古文書選』、東洋文化出版、1982年)

説明

飯沼弘経寺

亀山天樹院弘経寺。関東十八檀林の1つ。応永21年(1414)良肇が横曽根城主羽生経貞の帰依を得て建立し、開山となりました。戦国時代には戦乱に巻き込まれて焼失し、住職団誉存把は結城に難を逃れ、それが結城弘経寺の起こりとなりました。飯沼弘経寺はしばらく荒廃していましたが、17世紀に小金東漸寺了学を招いて復興しました。徳川家康の孫の千姫(天樹院。寛文6年「人物」参照)は了学に帰依して、弘経寺を菩提所と決めて諸堂の再建に貢献しました。この寺の院号天樹院はその法号に因みます。千姫逝去後はその竹橋御殿を移して霊屋としました。

参考文献
『浄土宗大事典』

伝説

貞把上人の霊にまみえる

まだ祐天上人が生実大巌寺にいらした頃のことです。祐天上人は大巌寺開山道誉貞把の霊にまみえました。貞把は、成田不動に参籠して知恵を授かったという伝説で有名な上人です(慶安元年「伝説」参照)。
この話は法然上人が夢中に善導大師に会って師資相承したという話が基本となって、祐天上人を正統の伝法者とする作者の立場で記されたものかと思われます。

参考文献
『略記』、『浄土宗大辞典』

鵜飼十郎右衛門の帰依

罪人の斬首を受け持つ役人であった鵜飼十郎右衛門は、5月に護国寺での嵯峨清涼寺の釈迦如来像の開帳(「寺院」参照)に参詣しますが、仏像に雲がかかったようになって拝することができませんでした。自分の罪障の深いことを恥じ、水垢離をとって精進潔斎しても仰ぎ見ることはできませんでした。十郎右衛門が祐天上人に懺悔し相談すると、祐天上人は平生身に着けた袈裟と数珠を与えました。十郎右衛門がそれらを身に着けて拝礼すると、ありありと仏像を拝むことができたのでした。その後、十郎右衛門は供養塔を建てて、斬首した1、505人(石塔より)の供養を行ったということです。この話は『遊歴雑記』初編にありますが、それでは元禄13年に「伝通院祐天」に相談したことになっています。祐天上人が伝通院に入るのは宝永元年(1704)なので、実際には十郎右衛門は当時の住職典恕に相談してのち、祐天上人との接点を持ったのでしょう。十郎右衛門建立の石塔は、祐天上人が伝通院晋山のときに伝通院に移したそうで、今も同地に建っています。

参考文献
『遊歴雑記』初編1(十方庵敬順、東洋文庫、平凡社、1989年)、『隆光僧正日記』2、『顕誉祐天の研究―諸伝記とその行蹟―』

寺院

檀林に「覚四箇条」発布

増上寺録所より、檀林に掟が出されました。「借地は言うに及ばず拝領地であっても、増上寺の許可を得なければ普請を行ってはならない」などの内容です。

雲臥、増上寺に晋山

7月2日、増上寺第33世白玄が入寂し、8日、飯沼弘経寺雲臥が第34世として晋山しました。

清涼寺釈迦像、江戸城に入る

三国伝来の釈迦如来像として有名な、京の清涼寺釈迦如来像(宝暦7年「寺院」参照)が5月から江戸で初めて開帳されました。場所は護国寺です。非常な評判で連日参詣の人が詰め掛けました。桂昌院(延宝7年「人物」参照)も5月16日に参詣され、さらに9月10日、その釈迦像を江戸城二の丸に迎えられました。御台所(将軍綱吉正室の従姫)もいらして寺宝とともに拝まれました。お伝の方(元禄5年「人物」参照)は翌日拝し、近習の者も皆拝しました。

参考文献
『武江年表』1、『江戸の開帳』(比留間尚、江戸選書、吉川弘文館、1980年)、『浄土宗大年表』、『山門通規』(『増上寺史料集』3)

出版

『風流御前義経記』

浮世草子。西沢一風(享保12年「人物」参照)著。元禄13年刊行。内容は、『義経記』や義経伝説に関する謡曲・浄瑠璃などを好色風に翻案したものです。全編において、太郎冠者が大名の御前で、仮名草子の『風流義経記』を語る、という型式をとっています。父、橘屋義方は金山事業で失敗、裁判の末、名村八郎次に破れて獄死。その妻である常磐は、八郎次に言い寄られて、主人公元九郎今義と妹を連れ、都を離れますが、今義を乳母に預けて行方不明になります。今義は、鞍馬の若僧観了を引き連れて、遊女となっている母や妹を探すために諸国の遊里を遍歴するという筋です。
史実を粉飾し、源九郎義経は元九郎今義に、源義朝は父橘屋義方に、常磐御前は母常磐に、平清盛は名村八郎次に、弁慶は観了というように名を変えて設定しています。義経を主人公としているところや、西鶴の好色物のように各地の遊里を舞台とし、古典や演劇を交えながら当時の風俗を盛り込んだところが新しく、当時の大衆の人気を集めました。

参考文献
『西鶴以後の浮世草子』(市川通雄、笠間書院、1983年)、『研究資料日本古典文学』4―近世小説(大曽根章介ほか編、明治書院、1983年)
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