明顕山 祐天寺

年表

元禄12年(1699年)

祐天上人

大巌寺入住

2月4日、祐天上人は増上寺大僧正了也上人とともに江戸城に呼ばれました。そして、十八檀林の1つである、生実大巌寺(千葉県)に入住することを命じられたのです。一度増上寺を出て民間にあった僧侶が、檀林の住職に迎え入れられたのは祐天上人が最初で最後です。通常檀林の住職になるには、選挙を行い、その結果を将軍が認可する方式が採られていました。この方法を採らずに民間から抜擢された祐天上人の大巌寺入住は、極めて異例のことだったのです。これには桂昌院の意向が大きく働いていました。桂昌院は、祐天上人の大巌寺入住を祝して「純子幡十二流」を贈ったようです。このとき祐天上人は62歳でした。

叔父休波、遷化

8月2日、祐天上人が江戸に上るとき頼った増上寺の叔父、休波和尚が亡くなりました。祐天上人の大巌寺入住を知ってからのことですので、満足しての遷化だったことでしょう。

参考文献
『生実大巌寺志』(『浄土宗全書』20)、『徳川実紀』6、『寺録撮要』1、『縁山志』6(『浄土宗全書』19)、『老中連署諸檀林入院條令并ニ同追加』(『増上寺史料集』1)、『顕誉祐天の研究―諸伝記とその行跡―』

説明

生実大巌寺

生実大巌寺は千葉市中央区大巌寺町にあります。16世紀中頃、領主原胤栄が貞把上人に帰依して生実城外に堂を建立し、上人を迎えたのが始まりです。滝沢精舎(道場)とも言い、檀林教育の道場となりました。また、生実版と呼ばれる古活字版の出版を行いました。
開山貞把上人については成田山不動堂に参籠した際、剣を口中に突き込まれて鈍血を吐き、それ以降賢くなったという伝説があり、大巌寺寺宝の中に「鈍血の衣」などがあります(慶安元年「伝説」参照)。境内には成田山不動の御別体である不動尊をまつる不動堂があります。寺宝の中には、祐天上人が在住当時書いたと思われる祐天名号があります。

参考文献
『生実大巌寺志』(『浄土宗全書』20)、『浄土宗大辞典』

寺院

光明寺白玄、増上寺住職に

9月26日、増上寺32世了也が退隠しました。閏9月29日、綱吉はその労をねぎらい、銀200枚と檜重を下給しました。了也に対する桂昌院の信仰は厚く、了也の在任中、法然上人に円光大師の勅諡号を宮中よりたまわる援助をしたり(元禄9年「寺院」参照)、幕府による美作(岡山県)誕生寺の経済支援を実施させたりしました。宝永2年(1705)桂昌院が逝去したときには、その遺言によって了也が葬儀の導師を勤めています。
閏9月26日、鎌倉光明寺白玄が増上寺33世住職となりました。白玄は増上寺24世路白のもとで出家修行し、川越蓮馨寺、飯沼弘経寺、新田大光院などの住持を経て鎌倉光明寺に住していた人物です。

寺院規定5か条

閏9月9日、増上寺録所は寺院規定5か条を定めました。内容は、借金の禁止、什物分散に気を配ること、法式は古来からのやり方に従うこと、新しく弟子を取ったときは増上寺に申し出ること、本坊をさしおいた寮舎の建立や修復の禁止などです。

参考文献
『浄土宗大年表』、『山門通規』(『増上寺史料集』3)、『浄土宗大辞典』

出版

『役者口三味線』

役者評判記の『役者口三味線』が刊行されました。江島其磧の著です。京、大坂、江戸の3冊から成ります。浄瑠璃の正本(太夫が語るとき使う本)など演劇書の出版で知られる八文字屋(「解説」参照)から刊行された最初の役者評判記です。演技評の記載が多く実用的で、これ以降の役者評判記の原型となりました。

参考文献
『歌舞伎年表』、『歌舞伎事典』

芸能

藤十郎と近松門左衛門

正月24日より、京の四条大芝居(都万太夫座、座元坂田藤十郎)で近松門左衛門作『けいせい仏の原』を上演したところ、梅永文蔵役の藤十郎の柔らかな演技が評判を呼び、大変な人気を博しました。近松は初期の頃、浄瑠璃作品を書いていたのですが、元禄6年(1693)辺りから藤十郎に作品を提供するようになっていました。近松はこののちしばらく藤十郎のために歌舞伎作品を書くことになります。

参考文献
『歌舞伎年表』、『歌舞伎事典』
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