3月29日、桂昌院は増上寺に参詣し、祐天上人より「現世無比楽」(元禄8年「祐天上人」参照)の説法を受けました。また、竜源寺より十八願の説法を受けました。祐天上人は桂昌院より紗綾をたまわりました。
この頃の祐天上人と桂昌院の会話の記録が残されています。将軍綱吉が「政務に暇のない身でありながら漢籍の読覧に力を注ぎ過ぎると病気になりませんか」と祐天上人が申し上げたのに対して、桂昌院は、「学問は政務にも資となるものであるし、将軍が政務をおろそかにせず、学問にも心をつかうという風聞が伝われば、全国で将軍を敬慕する風が起こり、また、皆学問を好むようにもなるであろう」と答えたと伝わります。
森田次郎兵衛直往は、祐天上人の熱心な信者でした。富裕な直往は、故郷の松坂の菩提寺、西方寺を不断念仏の道場にしようと思い立ち、祐天上人から名号を請い受けました。そして元禄10年西方寺に砂金500両を寄進して基盤を作りました。西方寺住職の信誉分道上人は、4月8日から1万日の不断念仏を行いました。そのとき祐天上人が招かれ、その法要の導師を勤められたと伝えられています。
松坂西方寺には、祐天上人像、また、祐天上人の名号を胎内に納める地蔵像が安置されています。上人像は、西方寺蔵の名号の裏の記述によると、寛延2年(1749)祐天寺で結縁してから松坂に遷座されたものです。
3月1日、三河大樹寺で大樹院(徳川広忠、家康の父)の150回忌を行いました。住職の通英は3月28日、綱吉に法会の謝辞を述べるため登城しました。
増上寺録所より、浄土宗寺院について3か条の規定が出されました。内容は、後住を誰にするかを願い出ることの禁止、また、出家して20年未満の僧は住職になれない、などです。
悲田派の碑文谷法華寺日附、谷中感応寺日遼らが近世の不受不施の法を犯した咎で、流刑に処せられました。
8月、上野寛永寺に根本中堂、文殊楼、仁王門、山王社が建立されました。同月28日、根本中堂に入仏、9月3日に供養が行われ、5日より一般の人々の参詣が許されました。江戸中の老若男女が詰め掛け、山内は立錐の余地もないほどでした。門前の町屋を取り払い、広小路としたのもこのときです。
9月6日、新橋南鍋町より出火し、神田、下谷、浅草、山谷、千住などが焼けました。このとき浅草三十三間堂が焼失しました。これは3年後の元禄14年(1701)に、深川に再建されます。
俳諧七部集の第7集。元禄11年刊行。撰者は、名目上は沾圃、実質上は芭蕉です。上巻に5巻の歌仙(1巻が36句)、下巻に蕉門209人の発句519句を収めています。代表的な作品は、連句「八九間」の巻です。発句(初句)は八九間(約15メートル)もある柳からしずくのしたたるさまを詠んだ「八九間空で雨降る柳かな」という芭蕉の句で、これに沾圃が「春のからすの畠ほる声」という、畠でからすが餌をあさって鳴いている情景を詠んだ句を打ち添えました。3句目は、2句目を新春の様子と見て、馬譌が「初荷とる馬子もこのみの羽織きて」と、初荷を運ぶ馬子たちは思い思いの晴れの装いである羽織を着ている、と詠みました。芭蕉が「前集(猿蓑)に大まけはすまじき様に存候」と書簡に記しているように、この『続猿蓑』にかけた意気込みが伝わってくる作品です。