明顕山 祐天寺

年表

元禄10年(1697年)

祐天上人

桂昌院と法談

3月29日、桂昌院は増上寺に赴き、蓮馨寺住職と神力演大光の句について談義しました。祐天上人とは「現当二世の利益の念仏は下人の申しあやまりの事を法談」しました。そして「祐天の談義にて疑いをさりしよしを仰せらる」とあります。念仏は身分が低い人が称えるものという誤解を払拭されたものと思われます。

参考文献
『徳川実紀』6、『縁山志』8(『浄土宗全書』19)、『顕誉祐天の研究―諸伝記とその行蹟―』

伝説

松坂西方寺

森田次郎兵衛直往は、祐天上人の熱心な信者でした。富裕な直往は、故郷の松坂の菩提寺、西方寺を不断念仏の道場にしようと思い立ち、祐天上人から名号を請い受けました。そして元禄10年西方寺に砂金500両を寄進して基盤を作りました。西方寺住職の信誉分道上人は、4月8日から1万日の不断念仏を行いました。そのとき祐天上人が招かれ、その法要の導師を勤められたと伝えられています。
松坂西方寺には、祐天上人像、また、祐天上人の名号を胎内に納める地蔵像が安置されています。上人像は、西方寺蔵の名号の裏の記述によると、寛延2年(1749)祐天寺で結縁してから松坂に遷座されたものです。

参考文献
「清水西方寺と祐天上人」(玉山成元、『祐天ファミリー』8、祐天寺、1996年9月)

寺院

桂昌院の寄付

桂昌院の願い出により、京都西岩倉の金蔵寺と西山の善峰寺に、それぞれ寺領200石が寄進されました。ともに天台宗の寺院で、金蔵寺は桓武天皇が平安京を作る際、西方安鎮のために経典を埋納した場所であり、元禄6年(1693)にはこの経典を納めた壺が見つかり、その場所に経堂が建立されています。善峰寺は西国三十三か所第20番の札所で、桂昌院は父方の本庄氏が、この寺院の薬師如来に祈願して誕生した息女だと言われており、寺領のほかに現在も残る堂舎が寄進され、手植えの「遊竜松」(天然記念物)があります。

法然上人に勅諡号

元禄9年(1696)には法然上人へ大師号を贈ることの宣下はなされていましたが、元禄10年の正月、知恩院は朝廷から、折しも法然上人の忌日法要である御忌が始まる18日に、円光大師の勅諡号をたまわりました。元禄10年は法然上人入寂後483年にあたっていました。

東大寺大仏殿柱の建立

公慶の始めた東大寺大仏殿の再興は、修復された大仏像の開眼供養が元禄5年(1692)に行われると(元禄5年「寺院」参照)、いよいよ大仏殿の工事へと取りかかります。公慶は元禄6年に、隆光(貞享3年「人物」参照)を介して綱吉と桂昌院そして柳沢吉保(元禄9年「人物」参照)に謁見し、幕府から全面的な支持を受けることとなりました。勧進の成果も上がり、元禄7年(1694)には難波の商人桑名屋二兵衛から大仏殿の柱2本の寄付を受け、元禄10年4月25日、立柱の式が執り行われました。このときおそらく、祐天上人が寄進した柱10数本も、大仏殿の柱として使われたことでしょう。

駒込大観音、造立

駒込大観音の名で知られる光源寺の十一面観音立像は、大和国(奈良県)長谷寺の十一面観音菩薩像を模したもので、観音・地蔵合体の相を持っているため「長谷型観音」と呼ばれ、この本尊を勧請した寺院が全国に多数あります。江戸の町人丸(屋)吉兵衛が寄進した駒込大観音は大きさが2丈6尺(約8メートル)ほどの大きさで、ほかに光源寺の観音堂内には1、000体の観音像も安置されていました。
元禄10年(1697)に駒込大観音が造立され、翌年の開眼供養には増上寺や霊巌寺、幡随院など檀林の住職も参列しました。くだって宝永5年(1708)大観音の堂宇が大破して再建されたときには、当時伝通院の住職であった祐天上人が、この大観音に点眼供養をしました。
現在の大観音は、第2次世界大戦で被災したのち再建されたもので、平成5年(1993)5月に開眼供養されています。大きさは6メートル。光源寺の境内では、祐天名号が彫られた庚申塔も見ることができます。

参考文献
『日本仏教基礎講座』真言宗(宮坂宥勝編、雄山閣、1980年)、駒込光源寺調査報告書(祐天寺内報告書、伊藤丈、1995年11月)、『徳川実紀』6、『望月仏教大事典』、『浄土宗大年表』、『国史大辞典』、『大本山増上寺史』、『隆光僧正日記』1、『日本仏教史』9、『武功年表』、『江戸名所図会』

芸能

団十郎の活躍

正月、江戸中村座で市川団十郎は自作自演の『参会名古屋』を上演し、不破伴左衛門の役を演じました。この中に、「しばらく、しばらく」と声をかけて登場し悪人を追い散らす場面があり、これが『暫』の演劇史上、現存の狂言本で内容をつかめる最初の上演です。『暫』は、のちに市川家の歌舞伎十八番(「解説」参照)にも数えられた演目で、この頃の団十郎は次々と、将来にわたって家の財産となる演目を演じ続けていたのです。

成田屋のはじめ

5月、中村座で『兵根元曽我』(元禄6年「人物」参照)が上演されました。初代市川団十郎が書いた作品です。団十郎は主演もし、曽我五郎役を勤めました。長男九蔵は通力坊、実は成田不動明王役で初舞台を踏みました。この芝居は大当たりとなり、成田辺りからも多くの見物が来ました。皆が舞台に賽銭を投げ、日に10貫文(2.5両。約15万円以上に相当)も集まったと言います。舞台が終わったあと団十郎は九蔵とともに成田山に礼参りをし、鏡を奉納しました。このときから団十郎の屋号は成田屋となったのです。

参考文献
『歌舞伎年表』、『歌舞伎事典』、「初代市川団十郎年譜」(『元禄歌舞伎の研究』増補版)
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