3月29日、桂昌院は増上寺に赴き、蓮馨寺住職と神力演大光の句について談義しました。祐天上人とは「現当二世の利益の念仏は下人の申しあやまりの事を法談」しました。そして「祐天の談義にて疑いをさりしよしを仰せらる」とあります。念仏は身分が低い人が称えるものという誤解を払拭されたものと思われます。
駒込大観音の名で知られる光源寺の十一面観音立像は、大和国(奈良県)長谷寺の十一面観音菩薩像を模したもので、観音・地蔵合体の相を持っているため「長谷型観音」と呼ばれ、この本尊を勧請した寺院が全国に多数あります。江戸の町人丸(屋)吉兵衛が寄進した駒込大観音は大きさが1丈6尺(約5メートル)ほどの大きさで、ほかに光源寺の観音堂内には1、000体の観音像も安置されていました。
元禄10年(1697)に駒込大観音が造立され、翌年の落慶供養には増上寺や霊巌寺、幡随院など檀林の住職も参列しました。くだって宝永5年(1708)、当時伝通院の住職であった祐天上人が、この大観音に点眼供養をしました。
現在の大観音は、第2次世界大戦で被災したのち再建されたもので、平成5年(1993)5月に開眼供養されています。大きさは6メートル。光源寺の境内では、祐天名号が彫られた庚申塔も見ることができます。
森田次郎兵衛直往は、祐天上人の熱心な信者でした。富裕な直往は、故郷の松坂の菩提寺、西方寺を不断念仏の道場にしようと思い立ち、祐天上人から名号を請い受けました。そして元禄10年西方寺に砂金500両を寄進して基盤を作りました。西方寺住職の信誉分道上人は、4月8日から1万日の不断念仏を行いました。そのとき祐天上人が招かれ、その法要の導師を勤められたと伝えられています。
松坂西方寺には、祐天上人像、また、祐天上人の名号を胎内に納める地蔵像が安置されています。上人像は、西方寺蔵の名号の裏の記述によると、寛延2年(1749)祐天寺で結縁してから松坂に遷座されたものです。
公慶の始めた東大寺大仏殿の再興は、修復された大仏像の開眼供養が元禄5年(1692)に行われると(元禄5年「寺院」参照)、いよいよ大仏殿の工事へと取りかかります。公慶は元禄6年に、隆光を介して綱吉と桂昌院そして柳沢吉保に謁見し、幕府から全面的な支持を受けることとなりました。勧進の成果も上がり、元禄7年(1694)には難波の商人桑名屋二兵衛から大仏殿の柱2本の寄付を受け、元禄10年4月25日、立柱の式が執り行われました。このときおそらく、祐天上人が寄進した柱10数本も、大仏殿の柱として使われたことでしょう。