明顕山 祐天寺

年表

元禄09年(1696年)

祐天上人

桂昌院、再び法問聴聞

4月8日増上寺において、前年の元禄8年(1695)に引き続き、再び桂昌院が祐天上人の法問を聴聞しました。法問は仏證生の法則により行われました。このとき祐天上人は縮緬3巻、金2、000疋(5両)を拝領しました。このとき列座した他寺へのご下賜品は檀林大光院、蓮馨寺にはそれぞれ縮緬5巻、天徳寺へは金1、000疋というものでしたので、祐天上人が特別待遇を受けていることがわかります。

参考文献
『徳川実紀』6、『国史大辞典』、『縁山志』8(『浄土宗全書』19)、『顕誉祐天の研究―諸伝記とその行蹟―』

弟子祐順、入寂

8月15日、祐天上人の弟子祐順が入寂しました。弟子としては2番目の地位にありました。祐順の入寂に、上人は心を痛めたことでしょう。

参考文献
『寺録撮要』1

伝説

いわきの漁夫の利益

6月の中旬、急に大風が起こり、民家はもちろん神社仏閣までも吹き倒しました。おびただしい塵埃が空に舞い上がり、日の光を遮って昼間なのに暗夜のようになりました。奥州(福島県)磐城の浦では漁船がたくさん吹き流され、行方知れずになりました。漁夫の太兵衛という者の船も流されましたが、船は壊れることもなく、風が治まって3日ほどで、無事に磐城の浦に帰ることができました。太兵衛は、多くの船が難破した中で助かったのは、常に信仰する名号のおかげではないかと思い、襟掛けの守り袋を開いて見ると、表装は乾いているのに、中の名号が書かれた紙は水に浸したように濡れていたのです。とても不思議なことでした。

参考文献
『祐天大僧正利益記』中

寺院

桂昌院の五重相伝

元禄9年4月に法問を聴講した桂昌院は、そののち8月に了也から五重血脈を受けるため、再び増上寺を訪れました。
五重は5つに分けられた浄土宗の教えの奥義のことを指し、これを授ける法会を五重相伝と言います(元禄元年「仏教行事」参照)。江戸時代では在家信者に伝授することが禁じられており、僧侶であっても約5年間の修学ののちでなければ相伝を許されませんでした。五重相伝会がすべて終了すると相伝者には、浄土宗の教えを伝えてきた歴代の伝燈師名を書き連ねた「血脈譜」が渡されます。これは、真の浄土念仏者であるという証でもあるのです。

唐招提寺の戒壇堂建立

律宗総本山である大和(奈良県)唐招提寺は、渡航の際の多くの苦難の末に失明した唐僧鑑真が、天平宝字3年(759)聖武天皇から新田部親王の旧宅を与えられ、戒律道場としたことから始まります。釈尊の戒を授ける道場を戒壇と言い、唐招提寺の戒壇は弘安7年(1284)に造られました。のちの律宗の衰退とともに、唐招提寺も興福寺の影響下に入りますが、唐招提寺の僧朝意のもとで出家をして、のちに綱吉・桂昌院の帰依を受けた護持院隆光(貞享3年「人物」参照)の仲介で、将軍からの援助により金堂などの修復が成されました。元禄9年には戒壇堂の再建が行われています。

参考文献
『浄土宗大辞典』、『浄土宗大年表』、『徳川実紀』6、『国史大辞典』、『仏教行事歳時記―6月』、『大本山増上寺史』

 

出版

『万の文反古』

浮世草子。井原西鶴(元禄元年「人物」参照)著。元禄9年刊行。西鶴の第4遺稿集。「此の鎌倉屋清左衛門殿と申すは、爰元にて我らあい棚のさし物細工いたされ候人にて御座候」のように書簡体を用いて、各章が1通の書簡という設定になっています。内容は、年末の支払い方法を子に指示した手紙「世帯の大事は正月仕舞」(巻1)、江戸で活躍しようとしたが果たせなかった「百三十里の所を拾匁の無心」(巻1)、妻を置き去りにした男が、17年間で女房23人を取り替えて、その後落ちぶれてしまう「京にも思うやふ成事なし」(巻2)などの話が収められています。全体的に町人の経済生活を題材としたものが多くなっています。

参考文献
『年表資料近世文学史』
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