明顕山 祐天寺

年表

元禄08年(1695年)

祐天上人

桂昌院との出会い

4月23日、桂昌院の臨席を得て、増上寺で法問がありました。題は『観世音菩薩往生浄土本縁経』に出る「現世無比楽、後生清浄土」ついてでした。これは、釈迦が阿弥陀仏を讃えて説く偈の中に「もし阿弥陀仏を念じれば、無量の罪を滅し、現世に比べようもない楽を受け、来世には必ず浄土に生まれる」とあることを論議したものと思われます。
このとき祐天上人は初めて桂昌院に対面し、これから桂昌院は祐天上人への尊信の念を深めていくのです。なお、この出会いをもたらしたのは、おそらく桂昌院の侍尼で側近く仕えていた清薫尼だったようです。その頃清薫尼も牛島に隠棲していました。
『清薫一代記』には、「私が牛島の庵室に居たとき、清薫尼の推挙で御上に知られた」と祐天上人が述べている記述があるのです。清薫尼は上人と同じ牛島にすまいしていた関係で上人をよく訪ねていたと言います。
元禄4年(1691)から7年(1694)まで、護国寺には詣でても、増上寺には参詣していない桂昌院が元禄7年に急に「念仏の有りがたき儀聞し召させられたきむね」を仰せられ、その後増上寺を訪れるようになったのは、清薫尼を経て聞いた祐天の噂に興味を持ち、一度対面してからはその法器に感銘を受けたからではないでしょうか。
法問に加わったのは新田大光院、祐天、秀円、吟立、了俊、了専の6名です。大光院と祐天上人には銀5枚、ほかへは銀2枚から3枚のご下賜金がありました。すなわちこのとき祐天上人は、すでに紫衣檀林の住職並に優遇されていたと見てよいでしょう。

参考文献
『縁山志』8(『浄土宗全書』19)、『鎌倉光明寺檀通上人御腹内書付』、『清薫一代記』(『感応寺書上』)、「祐天上人伝研究―上人ゆかりの人々(六)」(伊藤丈、『祐天ファミリー』9、祐天寺)

伝説

刀難身代わり名号

江戸本所二ツ目に岡村屋五郎兵衛という船大工が住んでいました。ひどく夫婦仲が悪く、毎日けんかが絶えませんでした。その弟子の権助は浅草観音を信仰し、毎朝詣でて念仏を数百遍唱え、主人夫婦の仲が良くなるよう祈っていました。参詣を始めてから満100日目の8月17日、いつもよりも早起きして参詣し、祈願して帰る途中、回向院の後ろの馬場を通りかかると、怪しい武士が突然刀を抜いて権助の額に斬りかかりました。権助はうんとうなってその場に悶絶してしまいました。しばらくして気が付き、近くの知人の家に助けを求めました。額の傷は深手でしょうかとその知人に聞くと、全く切れていないとの返事です。驚いて全身を確かめると、衣服もどこも無傷です。そこで権助は襟掛けにしていた祐天名号を取り出して見ると、なんと「南」の字が縦に切れているではありませんか。当人は言うに及ばず、知人も皆ありがた涙にむせんだのでした。五郎兵衛夫婦もこれを聞いて信心を起こし、いつのまにか夫婦仲もむつまじくなりました。
五郎兵衛は権助の真心に感じ、養子として岡村屋権右衛門と改名させ、本所四ツ目に別家させました。そののち享保2年(1717)、ある富豪が権右衛門の名号を譲り受けたいと莫大な金額を提示しました。権右衛門は欲に負け、名号を売り渡してしまいます。
その頃、権右衛門の所有する貸家に住む男が、家賃滞納のまま旅に出ました。留守中に権右衛門はその男の家財を売り払って家賃分を取り、家は別の者に貸してしまいました。男は帰ってきて憤り、権右衛門が朝早起きして雨戸を開け、ひと休みしているところへ来て、懐中の脇差しで刺し殺してしまいました。その男も自害して果てました。
初めは心がけが良かったために福を得ましたが、のちの悪心のために災いに見舞われた例です。

参考文献
『祐天大僧正利益記』中

寺院

綱吉、知足院へ

正月、綱吉は知足院に行き、護摩をたかせました。僧正隆光(貞享3年「人物」参照)が拝謁し、銀100枚、昆布1箱を綱吉からたまわりました。また、この年は綱吉が50歳になったことの祝いに、知足院の寺領を500石加え1、500石にしました。
また、この年の9月18日にも綱吉は知足院に詣で、知足院を祈願所に定めて護持院と寺名を改め、隆光を大僧正に任じました。隆光には詠歌3首をたまわったほか、銀100枚、昆布1箱、屏風2双をくださいました。

五百羅漢

5月、僧松雲は本所に1、500坪の土地を与えられたので、ここに仮堂を建て500体の羅漢像を安置しました。松雲は貞享年間(1684~1687)江戸に出て羅漢像を制作し始めましたが、1体2尺5寸(約1メートル)もある彫像を彫るのは大変で、なかなかはかどりませんでした。元禄6年(1693)にやっと50体が完成したとき、それを聞いた桂昌院が10体を寄付し、かつ勧進の許可を与えました。このおかげで彫像制作は格段に進み、ついにこの元禄8年、500体すべてを完成させたのでした。松雲は次いで堂宇の建立を志しますが、その完成を見ずに宝永7年(1710)63歳で入寂しました。松雲の弟子らの努力により堂ができたのは、享保12年(1727)です。この五百羅漢寺は明治20年(1887)本所の緑町(墨田区)に移り、同42年(1909)荏原郡(目黒区)目黒村に移転しました。

綱吉の観月猿楽

9月13日、将軍綱吉は観月猿楽を催し、増上寺方丈了也らを陪観させました。了也は、11月25日にも綱吉の『易経』の講説を拝聴するなど、親しく交流していたようです。

参考文献
『望月仏教大辞典』、『徳川実紀』6、『浄土宗大年表』

芸能

津打治兵衛、活躍

正月28日より大坂岩井座で、津打治兵衛作『観心寺七星如意輪観音開帳』が上演されました。観心寺は河内(大阪府)南河内郡にあり、天長4年(827)、空海の弟子実恵の創建した古刹です。七星如意輪観音とは北斗七星を随伴した如意輪観音のことです。観心寺の金堂の本尊で、空海作と伝えられます。
作者の津打治兵衛は、はじめ親仁方(老け役)の歌舞伎役者でしたが、元禄初期から大坂で作者として認められています。元禄13年(1700)江戸にくだり、『けいせい乳母桜』などの作品で評判を取りました。元禄末に没したと言われます。同人の名は息子が継ぎました。息子は『一心二河白道』で大当たりを取った2世津打治兵衛で、以後も同名は4世まで受け継がれました。

参考文献
『歌舞伎年表』、『歌舞伎事典』、『望月仏教大辞典』
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