明顕山 祐天寺

年表

元禄07年(1694年)

祐天上人

最勝院に喜捨

祐天上人は、いわきにある生家の菩提寺最勝院の復興のために、元禄6年(1693)に引き続き、同院にたくさんの寄付をしました。山内に今も残る粉河屋久左衛門作の双盤には「施主三界萬霊 願主祐天」とあり、祐天上人が寄進したものであることがわかります。自らが施主とならないところに上人の徳がしのばれます。
さらに祐天上人は、領主内藤能登守義泰に仏資糧を託す形で、最勝院の別時念仏の永久維持を図りました。仏資糧は680俵(現在の約1、600万円に相当)にもなりました。これにより以後、内藤家より毎年最勝院に「常念仏賄料」として相当の米、金子などが給与されました。これは明治の廃藩置県まで170年間受け継がれたのでした。

参考文献
『顕誉祐天の研究―諸伝記とその行蹟―』、「最勝院中興縁起」(『雑纂磐城誌料』)、「僧祐天」(『磐城志料』、いわき中央図書館蔵、1911年)

館林善導寺に寄進

『善導寺と祐天上人』には、祐天上人直筆名号の写しが記録されています。名号の裏には元禄7年正月2日、善導寺不動尊日牌料として金子100両(600万円相当)を施主として納めたことが書かれています。
最勝院の場合も、善導寺の場合も、寄進の額は一介の隠遁僧にできる額をはるかに超えています。祐天上人の名号の功徳が知れ渡り、それを求める人たちの寄進する浄財が、祐天上人のもとに集まっていたことがわかります。

参考文献
『善導寺と祐天上人』(石川英亮、善導寺、1936年)

寺院

九品仏珂碩上人、入寂

この年の10月7日、奥沢(世田谷区)の九品仏浄真寺の開山、珂碩上人が入寂しました。76歳でした。珂碩上人は、元和4年(1618)江戸に生まれ、覚真寺で出家したあと、下総(千葉県)大巌寺の雄誉霊厳門下の大誉珂山に師事しました。のち寛永13年(1636)には、珂山が霊厳の跡を継いで霊巌寺2世となったため、珂碩も師に従って霊巌寺に入りました。明暦元年(1655)頃、霊巌寺を霊巌島から深川へ移転させることになり、珂碩は命を受け造営工事を監督しました。その頃から珂碩は1日3文ずつ蓄えて準備をし、寛文7年(1667)九品の浄土に合わせた仏像9体を完成させました。しかし、海が近い深川は風や塩の害が多く、仏像はいくたびも破壊されてしまったのです。延宝6年(1678)奥沢の村民の招きにより、上人は海より遠い同地に移り、新しい堂を建立し、九品の像を移して安置しました。上人はまた、先妻の霊に悩まされる後妻を救うなど、数々の利益を人々に与えました。その行蹟は弟子の浄真寺2世、珂然上人により『珂碩上人行業記』という伝記にまとめられています。

嵯峨清涼寺釈迦如来像、開帳

京都清涼寺の釈迦如来像が居開帳を行いました。この釈迦如来像は大変な信仰を集めていました。江戸における出開帳は元禄13年(1700)護国寺で行われたのが最初で、そののち江戸時代にはあと9回、すべて回向院で行われています。

参考文献
『浄土宗大辞典』、『珂碩上人行業記』(珂然、『浄土宗全書』17)、『望月仏教大辞典』6、『武江年表』1

出版

『炭俵』

俳諧七部集の第6集。元禄7年刊行。野坡・利牛・孤屋を撰者とします。連句(元禄4年「解説」参照)集で発句集を挟むという構成をとっています。芭蕉・野坡の2人による「梅が香」の巻と、芭蕉・野坡・利牛・孤屋の4人による「振売」の巻が優れています。例えば、「梅が香」の巻の7句目は、野坡作で、親方が菊を望んだので、それをあげてしまったという意の「御頭へ菊もらはるゝめいわくさ」です。これに芭蕉は、丹精込めて作った菊に対する愛情を愛娘の上に移し、年頃になった娘を堅く人に会わせないという意の「娘を堅う人にあはせぬ」と、8句目に菊を大事にする頑固な老人の気性を付けました。野坡は9句目に、娘を大切にしているが、われらと同じ並の小商人じゃないかと非難して、奈良通いの商人仲間は、皆同じ程度の少ない資本で商売を続けているという意の「奈良がよひおなじつらなる細基手」を付けました。このように庶民の日常生活の様子が句に詠まれており、当時の生活文化を知る上で興味深く、また不変的な人間の気持ちもよく表れています。

参考文献
「『炭俵』の世界」(大内初夫、『芭蕉物語』)
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