元禄6年、祐天上人は故郷いわき(福島県)へ帰りました。生家新妻家の菩提寺最勝院には「新田村最勝院什物 寄進祐天 元禄六年七月吉祥日」と銘の入った喚鐘がありますが、これは祐天上人が自らいわきへ行き、寄進したもののようです。また、最勝院にはほかにもさまざまな什物が残っており、祐天上人が最勝院の中興を発願し、それに力を注いだことが知られます。
祐天上人のいわきへの旅でもう1つ重要なことがありました。自分の甥にあたる祐海を出家させて江戸に連れ帰ったことです。祐海は当時数えの12歳、満11歳でした。前年に父を亡くし(元禄5年「祐天上人」参照)、身よりの少ない境遇だったのです。のちに祐天寺を起立し、第2世住職となる人です。
江戸新材木町に、丸や藤兵衛という者がいました。その妻が元禄6年2月に、日頃から親しくしている本所石原番場町に住む、貞立という尼を招いて相談をしました。
「私は2人の娘に先立たれ、ことに1人は非業の死を遂げたので、成仏したかどうかもおぼつかなく思います。なにとぞ祐天上人にご回向をお願いしてください」
貞立尼は承知して石原の祐天上人の庵室に向かいましたがその道すがら、非業の死とは難産で死んだ姉娘のことであろうと考えました。祐天上人は頼みを受け入れ、姉娘のためにねんごろな供養をしました。
そののち藤兵衛の妻の夢に、美しい衣服を着て幸せそうな姉娘と、貧しげな身なりで水を欲しがる妹娘とが現れました。妻は目覚めて貞立尼を招き、祐天上人の供養が姉娘に対して行われたことを知って驚き、真実を語りました。実は妹娘はある材木屋に嫁ぎましたが、夫が博打で身を持ち崩し、家屋敷も失ってしまいました。いく度かは実家から援助もしましたが、あるとき夫藤兵衛がそれを断ったところ、婿は立腹して娘を刺し殺し、自分も自害して果てたのです。妹娘こそ、非業の死を遂げていたのです。
貞立尼はすぐに祐天上人の庵室に赴き、事の次第を話したところ、上人も不憫に思われ、丁寧に供養してくださいました。そののち藤兵衛の妻の夢に妹娘がほほえんで現れ、供養の礼を述べました。藤兵衛の妻ものちに出家して念仏に励んだということです。