明顕山 祐天寺

年表

元禄5年(1692年)

祐天上人

義弟、没す

元禄5年、祐天上人の妹の婿、小左衛門政義が没しました。法名は正誉順覚居士です。早世した者を除いて3人の息子、2人の娘がいましたが、その末っ子が祐海(元禄6年「祐天上人」参照)と言われています。祐海は幼くして父を失ったのでした。

参考文献
『寺録撮要』1

伝説

化け猫から命拾い

奥州米沢領(山形県)小瀬村に石川勘兵衛という真綿を商う者がいました。8月、商いのために武州(埼玉県)越谷に宿を取りました。その夜の夢に、白い針のような髪を逆立て、黄色い眼を光らせた老婆がやってきてのどに小刀を突き立てました。勘兵衛は驚き、高声に念仏しながら老婆の手をつかもうとすると目が覚めました。見るとなんと、年を取った大猫が勘兵衛ののどに食らい付いて離れないのです。恐ろしさに体が震えましたが、勘兵衛は右手で猫の4足を強く握り、左手で祐天上人の名号を取り出して猫の鼻先に突き付けました。すると猫は、かみ付いていたのどを離して逃げ出そうとしたので、猫の4足をつかんで塀の外へ投げ付けました。

宿の亭主の話によると、その猫はいろいろな姿に変化して旅人を悩ますので、捕らえて殺そうと思っていたのだが、住処がわからないとのことです。鋭い牙の傷はずっと残りました。勘兵衛は命が助かったのは念仏の利益であると、信心を増し、祐天上人のもとで出家したそうです。

参考文献
『祐天大僧正利益記』中

寺院

伝通院了也、増上寺住職に

2月に辞職して麻布一本松に隠居した古巌上人に代わり、増上寺第32世となったのは小石川伝通院の了也上人でした。当時64歳だった了也上人は、いつも穏やかな表情を絶やさず、柔和で沈着な雰囲気が増上寺の僧侶の間でも好評な人物で、桂昌院からも篤く帰依を受けました。

参考文献
『大本山増上寺史』

東大寺大仏、開眼

貞享4年(1687)より、公慶上人が修復のために諸国勧進を行ってきた東大寺の大仏(貞享2年「寺院」参照)は、元禄5年に完成し、全国の高僧が招かれて盛大な開眼供養が営まれました。公慶上人は、幕府に勧進の許可を願い出た貞享3年(1686)より7年間、自分を戒める意味を込めて、夜も座って眠っていたのですが、開眼供養が済むと、ようやく横になって寝ることを自分に許したと言います。

参考文献
『日本仏教史』9、『江戸の開帳』

新寺院建立の禁止

江戸において寺院を新しく創建すること、または再興すること、もと庵室であったものを寺院とすることが禁止されます。この禁止令はたびたび出されていたものですが、よく守られることがなかったようで、元禄5年に再び禁止令が下されました。現在建っている寺院を古跡と定める法令も、併せて発令されています。

参考文献
『徳川実紀』6、『日本仏教史』9

人物

お伝の方

お伝の方 万治元年(1658)~元文3年(1738)

5代将軍綱吉の側室で、綱吉のただ1人の子、鶴姫(延宝5年「人物」参照)の母であるお伝の方は、黒鍬者権兵衛の娘として生まれました。黒鍬者とは、戦時には戦場で道路工事や死骸の清掃をする者たちです。平和時には城内で力仕事や運搬、お触れの伝達などに従事しており、12俵1人扶持の軽輩でした。しかも権兵衛には1男3女がおり、生活は楽ではなかったのです。兄権太郎は素行が悪く、博打好きで家の助けにはなりませんでした。やがて父母の勘当を受けて逐電します。

お伝の方は父の同役、平井吉右衛門の娘分として、寛文年間(1661~1672)館林宰相綱吉の母、桂昌院付きの侍女となり、美貌が見出されて同10年(1670)12歳で綱吉付きとなります。やがて延宝5年(1677)19歳のとき、白山御殿で鶴姫を生みます。同7年(1679)には神田御殿で男子徳松を産んだため、父権兵衛は取り立てられ、100人扶持を拝領しました。公命で堀田正俊より名字も授けられ、堀田將監と名乗りました。延宝8年(1680)綱吉が将軍宣下を受けてからは、御袋さま(将軍世嗣の生母の意味。歴代将軍側室中で「御袋さま」と呼ばれたのはお伝の方1人です)と呼ばれました。

天和2年(1682)、兄権太郎に悲劇が起きました。悪い友達の小山田弥一、天野十左衛門らに打ち殺されてしまったのです。権太郎は妹が将軍の寵愛を受けるようになったため、急に富貴になりました。それを見た悪友が、夜権太郎宅へ忍び込んで盗みを働き、起きてきた権太郎を斬り殺して立ち去ったというものです。普通であれば元博徒1人が殺されたというだけの事件ですが、権太郎は将軍世嗣の外伯父にあたるので、幕府は放っておくわけにいきません。人相書きを配って全国に大掛かりな指名手配をし、常陸国(茨城県)竜ヶ崎で小山田ら6名を捕らえました。彼らは日本橋に3日間さらされたうえ、品川で磔になりました。同年8月のことです。この事件はのちに『護国太平記』に文芸化されたほど、有名な事件です。

お伝の方の男子出産ののち、水野右衛門太夫忠春家の浪人一色左京義俊の娘が綱吉の側室となって懐妊しますが流産し、その後小納戸某の妻に下されました。また、本多越前守利長の家老本多彦兵衛の娘お利佐が綱吉の子を懐妊しますが、これも流産します。一時的に綱吉の寵愛を受けても、それが生涯続く幸福となるという保証は何もなかったのです。これらの女性は『幕府祚胤伝』などには名が見えず、『柳営婦女伝系』にのみ記される女性です。綱吉には御台所のほかに名家から迎えられた大典侍など、側室も数人ありました。その中で身分のない身を起こして無事に子を産み、綱吉の寵愛を受け続けたお伝の方は麗質とともに運も強かったと言えるでしょう。

しかし、お伝の方にも不幸は訪れました。大切な若君、徳松が天和3年(1683)4歳のかわいい盛りで病没してしまったのです。元禄7年(1694)7月1日からはお伝の方は五の丸さまと号しました。

宝永元年(1704)、紀州家へ嫁いでいた娘、鶴姫にも27歳の若さで先立たれ、宝永6年(1709)綱吉薨去後は落飾して瑞春院殿と号し、同年4月三の丸へ入って三の丸さまと呼ばれました。「御慈愛賢慮有り」と、人々に慕われたと言います。元文3年同所において81歳で逝去しました。遺骸は、徳松や鶴姫の眠る増上寺に葬られました。

参考文献
『徳川幕府家譜』(斎木一馬ほか校訂、続群書類従完成会、1970年)、『柳営婦女伝系』(前史料と同書に収載)、『新装版・史料徳川夫人伝』(高柳金芳校注、新人物往来社、1995年)、『浮世絵 江戸女性の様ざま』三谷一馬監、太田記念美術館学芸部企画編集、太田記念美術館発行、1986年)
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