明顕山 祐天寺

年表

元禄4年(1691年)

祐天上人

北十間川の身投げ人

元禄年間(1688~1703)のこと、祐天上人は葛西(江戸川区)方面に往来の途中、北十間川(墨田区)に情死者の遺体があるのを見て深く憐れみ、懇ろに供養して戒名を授けました。また自ら名号を書いて与えたのです。それ以来この付近で子供が川で溺れる事故がなくなり、名号を刻んだ名号石は水難除け、安産、子守りとして崇められてきたのです。

北十間川境橋のたもとには今も祐天名号石をまつる祐天寺と名付けられた小さなお堂があります。戦災で、百万遍の数珠や縁起書は焼けてしまったのですが、戦前の写真が祐天寺に残っており、上述のことがわかります。

参考文献
『香取神社社誌』、『顕誉祐天の研究―諸伝記とその行蹟―』

伝説

剣難七太刀の名号

本多中務侯の藩中、蜂須賀囹之助の下男門兵衛は大層な酒好きで、泥酔すると無礼な振る舞いをすることもありましたが、平生は真面目に働くので、主人は過失をとがめず数年召し使っていました。元禄4年6月本多侯の長男が亡くなり、翌月の7月6日に深川霊巌寺で法事が行われました。囹之助も門兵衛を供に連れて霊巌寺に詰めていましたが、法事の終わらないうちから門兵衛は泥酔して乱暴狼藉を働きました。朋輩が止めても聞き入れず、かえって悪口を言うので、仕方なく取り囲んで屋敷に連れ帰り、その夜主人に報告しました。囹之助は激怒し、日頃の注意にもかかわらず慎むべき法事の場を汚したのは、すぐにも手討ちにすべきだが、中陰のうちなので自分の意志で決めがたいと言って、上役遠藤与五右衛門を通じて主君本多侯に報告しました。本多侯も立腹し、門兵衛は打ち首と決まりました。

7月9日の朝、門兵衛を引き出し、関庄左衛門という武士が太刀で門兵衛を斬り付けました。しかし、ただうつぶせに倒れただけで刃の跡も見えないので、嘉兵衛という者が代わりに斬りましたが同じです。さらに喜兵衛という練達の者が斬っても首が落ちません。遠藤与五右衛門は怪しんで自分が差していた太刀を抜き、これで斬れと命じました。喜兵衛が受け取り斬りましたが、それでも斬れません。突き殺そうとしても傷つかず、一同不審の思いにかられました。この様子をつぶさに主君本多侯に言上すると、本多侯はその男は何か信心をしているのかと尋ねました。与五右衛門が門兵衛を召し出して聞くと、信心はしていないが、母親から祐天上人の名号を譲り受け、これを片時も身から離さず大切にし念仏せよと教えられたので、実行しているとのことでした。本多侯はこれを聞き、門兵衛は仏天の加護をこうむっている、罰することはできないと言い、助命して石川浅右衛門という姓名をたまわって武士に取り立てました。しかし、門兵衛はほどなく病気になり、元禄4年8月中旬逝去したということです。

参考文献
『祐天大僧正利益記』中
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